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聖書の歴史を調べてみると、神様は重要で決定的な時期に奇跡を起こし御自分の民を救われました。葦の海(紅海)を裂かれた御業や、40年間60万人の壮年たちと彼らの家族まで一日も欠かすことなくマナを食べさせてくださった御業や、また岩を打って水を出された御業のように、イスラエルの民に困難がある時は神様が驚くべき方法で道を開いてくださる場面を確認することができます。 それでは、この時代には誰が福音の奇跡を起こすのか、これに対する答えもやはり神様です。私たちは天でサタンに惑わされこの地に追い出されてきたので、今もサタンが惑わしたならば、いつでも惑わされる軟弱な存在です。しかし、私たちをいつも掴んでくだ...
「神様は存在される」と口では言いながら、実際の生活の中では神様が存在しないかのように行動する人々が時々います。もちろん、私たちシオンの家族はそうではないでしょうが、この世の多くの人々は未だに神様の御心を理解できず神様の存在を知り得ぬため、あらゆる悪い習慣と悪い行動をするのではないかという気がします。 神様は全てのことをしっかり監察なさり見守っていらっしゃいます。それで、正しい人は正しい人として、悪い人は悪い人としてそれぞれの行いに応じて報いてくださる「公平な神様」だとおっしゃいました(マタ16:27、イザ30:18)。 地に住むすべての人に目を留められる神様 以前、ある子供が...
旧年を送り新年を迎えながら、私たちに天国の希望をくださった神様にもう一度感謝をささげます。 将来行く所を知らない人々は、早く過ぎ行く年月を振り返りながら、惜しい気持ちと空しさの中で憂鬱になったりもします。しかし、新しい契約の内にいる聖徒たちには、永遠なる天国がより近づいているのですから、さらに神様に栄光を帰し感謝をささげ、神様の国に入る上で欠けた所のないように準備をするべきだろうと考えます。 将来行く天国に対して聖書を通して調べてみながら、喜んで天国を待ちつつ、この地で与えられた生活を、一日一日意味のある充実した日々として生きていくシオンの家族に皆さんなられるように願います。 ...
神様は私たちに祝福と永遠の命を賜り、天国を治めることができる権威まで約束してくださいました。私たちが天で犯した罪と咎をすべて赦してくださっただけでなく、罪人である私たちを天の「王である祭司」に変えて、永遠の命に至れるようにするまで、日々「いけにえを焼き尽くす祭壇」の小羊になられ、死の境界線を行き来することも厭われませんでした。 私たちはこのような神様の愛にどのようにして報いることができるでしょうか?ひたすら子供である私たちの救いのためだけに犠牲と献身を惜しまれず、私たちと共にいてくださる天の父と天の母に、果たして何を差し上げることができるでしょうか? 神様に祈りをささげる時、ただ何...
歴史を調べてみると、偉人の中で誰の助けも借りず独りで偉大な業績を残した人は誰もいないようです。聖書の歴史の中に登場する偉大な信仰の先祖たちも、誰かの助けなしに自分一人でその位置に立った人はいません。 助けとは、人から受ける助けもありますが、全宇宙の万物を創造され、時代と歴史を導いていかれる神様の助けが最も力強い助けです。人々の助けは失敗することもあるし、むしろ誤って失敗させる要因になることもありますが、神様の助けは、いつも私たちを永遠の救いと勝利の道に導いていきます。神様に助けてもらって行うことには、決して失敗がありません。 天が助けたら、人の力でどうすることもできない...
多くの人々は、キリストを信じる前に、まず奇跡を見ようとします。もちろん、神様は全知全能な方なので、どのような奇跡でも行うことがお出来になります。 それでは、キリストが行われる奇跡とは何でしょうか?人々は、足の不自由な人が立ち上がって、盲人が目を開く程度の内容を指して奇跡と言います。しかし、神様はすでにもっと大きくて偉大なる奇跡を数知れず行われたので、その程度のことは奇跡の中でもとても微々たるものに過ぎません。 信仰の目で見れば、私たちは数々の奇跡を眺めることができます。その中でも、神様が行われた最も偉大なる奇跡は、罪によって死んだ私たちの魂を永遠の命の御言葉で復活させた新しい契約の...
聖書の御言葉を見つめてみると、神様が極めて小さいものを通して大きな御業を成され、一見些細に見えることの中にも重要な御心を込められたということを確認できます。 神様は「小さなものも千人となり、最も弱いものも強大な国となる。」と言われた預言の御言葉どおり、小さくて弱かった神様の教会に福音の大きな御業を起こしてくださいました(イザ60:22)。今、福音が全世界に宣べ伝えられる様子を見てみると、小さな能力を持った聖徒たちが預言を信じる信仰で、サマリアと地の果てまで行き、この世のあらゆる民に神様の栄光を大きく現しています。このようにその始まりは小さくても、後には非常に大きくなるのが、福音が宣べ伝え...
私たちが神様を霊の父、霊の母と呼ぶ理由は、私たちが神様の子供だからです。したがって、模型といえるこの世界の中で、両親(父と母)の心を理解するなら、霊的な世界の中での天の父と天の母の心も推し量ることができると思います。 神様は子供たちがどんな姿であることを最も望んでいらっしゃるのか、次の話を通して調べてみましょう。 母が一番会いたいと思った息子の姿 愛する息子を戦地に送り、心を痛めていた母親がいました。ある日、母親は戦地に出て行った息子が戦死したという通知を受け、悲しみのどん底に突き落とされました。その日から息子に会いたくてたまらなかった母親は、夜も眠れず、もう一度息子に会わせてく...
聖書には、神様がくださった教えが一つ残らず記録されていますが、聖書を読んでいながらも神様を知ることができず、その御心を悟れない人々が大勢います。神様が人間の戒めを守る者たちの知恵と聡明さを隠され、御自分が選ばれた民にのみ御言葉を理解することができる霊的な目と耳を開いて下さるからです(イザ29:13-14、マタ13:10-16)。 このような内容を眺めるたびに、私たちの神様は本当に驚くべき指導者であり、策士だという気がします。神様が造られた万物をじっと覗いてみると、その中から創造主の奥深い摂理を見出すことができます。また、この地に臨まれ、私たちを救われるすべての過程の中でも、驚くべき計画が...
愚かな者は神様などいないと思って悪を行うのに大胆です(詩14:1)。しかし、神様はすべてを観察され、一人一人にその行いに応じて報いて下さいます。 世の理を見ても、自分が施したものが自分に返ってきます。愛を施せば、その愛にいつか報いがあり、悪いことをしたら、そのことの仕返しを受けます。行った通りに、自分に返ってきます。 私たちの神様がこの地に来られ愛を施され、私たちの魂を生かしていただく極めて善いことを行われたので、私たちも、神様の愛に報いようと隣人に愛を与え、命を与えることに力を尽くしています。善いことをすると、常にその後に幸せがあり、栄光があります。 行いに応じて私たちに報...
夏の暑い日や寒い冬の日を問わず、シオンの家族は、福音のために常にご苦労が多いことと思います。神様は失われた者を捜して救うためにこの地に来られ、福音を宣べ伝えられました。人類を天国に導くこの福音が今、私たちが守って伝える新しい契約です。 新しい契約の福音の性格を一言で要約すると「世話をし面倒を見る福音」ということができます。 聖書は神様と聖徒との関係を羊飼いと羊に例えています。良い羊飼いであるキリストは、羊に例えられた御自分の民を愛で世話をして面倒を見られ、御自分の命も惜しまれず守って下さいました(詩23:1 -6、ヨハ10:10-16参考)。このような模範を見せられた理由は、私たちにキ...
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(ルカ10:2)。 収穫の祭りである仮庵祭の預言の時代を生きていくシオンの子供たちは、霊的な収穫の仕事を引き受けた働き手たちです。たとえ、私たちの力は足りなくても、神様は私たちを福音の働き手にして下さり福音を伝えることをお願いされました。 誰もが忙しい秋の日、賢く勤勉な働き手は主人を快くさせますが、怠惰な働き手は、主人の歯にとって酢のようで、目にとって煙のようになります(箴10:5、26)。今、私たちは果たして主人である神様にとって、どのような働き手なのか考えてみて、福音の働き...
私たちの社会は約束で維持されています。例えば、紙幣は元々紙に過ぎませんが、人々の間で結ばれた約束によって、単純な紙ではなく物を売り買いすることができる紙幣に変わりました。 もし子供が紙幣を裂いてしまったら、人々は勿体ながりますが、それがただの紙だったら、それほど惜しまないでしょう。紙幣とは異なり、紙には約束が内在していないからです。 このように約束は重要なものです。 神様と人類の間にも、神様が立てておかれた約束、まさに契約があります。信仰生活において、契約と信仰に対する相関関係を理解していなければ、なぜ私たちが神様の戒めを守り、エロヒム神様への信仰を守るのか知ることができず、...
善良な心と善い行いは、神様の子供たちが身につけるべき基本的な徳目です。神様の日が迫っているほど、神様は私たちが聖なる行いと敬虔により、真の悔い改めの御業を成し、誰も滅びないで神様の国に皆入ることを願っておられます(一ペト3:16-17、二ペト3:8-13、三ヨハ1:11)。 時代が邪悪で淫乱な世代なので、多くの人が悪に無感覚で悪いことを好みますが、神様の人々がこの世代を学んではいけません(ロマ12章2節)。神様の御言葉の中で適切に実践できていない部分がまだ残っているとしたら、善い姿にすべて直していきましょう。 誰もが聖書の教え通りに生きて、永遠の天国に十分に進んで行かれることを願い...
私たちは一日の中でも多くの対話を交わします。仕事のための対話もあり、家族と共有する談笑、聖徒同士手を握り合って祝福を願う挨拶もあります。考えてみれば対話は生活の中で大きな比重を占めるもののようです。対話なしに互いを理解したり、意思疎通するのは難しいからです。それだけ人生の中で、対話は必要不可欠な要素です。 対話の中には虚しく役に立たず、悪い結末を招く言葉も多くあります(マタ12章34-37節)。だから神様は、私たちに美しい対話法を教えて下さいました。まさに宣教です。宣教は神様の御言葉を主題にして、魂を生かそうとする心で交わす対話です。そのような対話こそ、善にして義であり、世を救う対話だと...
聖書の教えを見ると、天国の入り口で、天国に入る資格がある神様の民とそうでない人が区別されていることが分かります。いくら「主よ、主よ」と叫び、キリストを信じて、その名前で預言者の役割をしても、不法を行う者は天国に入れずに、皆追い出されます(マタ7:21-23、25:31-46)。 この場面は、まるで入国審査場の姿と似ていると言えます。空港の入国審査場を見ると、その国に入ろうとする人々は、すべて入国審査を受けます。ところが、その国の国民と、外国人は、審査される列が異なります。その国の国籍とパスポートを持っている人は、別の審査台でパスポートにスタンプだけもらって簡単に通過しますが、外国人の場合...
聖書はこの時代を生きていく神様の子供たちが、信仰の教訓と警告を得ることができるように、過去の歴史を詳細に記録しています。イスラエルの民が歩いて行った荒れ野の道もやはり、ただ過ぎ去った歴史にとどまらず、天国のカナンを見つめて信仰の道を歩いている霊的イスラエルの民が鏡にすべきである写しと影の歴史です。イスラエルの民が四十年の間歩いた荒れ野の道で、さまざまな試みに直面した歴史を振り返り、今日私たちが果たして神様の御心にふさわしい信仰の道を歩いているかどうか調べてみましょう。 鏡と警告として記録された荒れ野の歴史 3500年前、イスラエルの民族が、乳と蜜の流れるカナンの地に入るためにエジプ...
イスラエルの民の荒れ野生活40年の歴史を振り返ってみると、神様の御心にふさわしくない生活を営むことにより、20年や30年、あるいはカナンの地に入る直前まで厳しい荒れ野を歩いて来ても、結局その群れから離脱したり、脱落した場合が多くありました。この時代、私たちの信仰の荒れ野においては、一人も落ちこぼれず、全員が天のカナンまで無事に到着するように願います。 今は信仰生活をする上で、様々な条件が以前よりもはるかに良くなったことは間違いありません。しかし、そのような外的な環境に反比例して、忍耐する心はますます減る傾向があるようです。シオンの家族たちは忍耐する信仰を持ってくださるよう心からお願いしな...
神様は、福音を聞いて悟り救いに至ることができる機会を、全人類に許されました。その御恵みによって世界の福音の御業が驚くほどに成し遂げられている中、世界のあちこちで数多くの魂が悔い改めて神様の懐に帰って来ています。 福音を伝え聞いた人々が一番驚くのは、まさに天のエルサレム母についての真理だといいます。ヨーロッパや北米、南米、オセアニア、アジア、アフリカに至るまで、世界のどの国でも天の母の真理の前に、福音の門が大きく開かれているのは、それだけ世界の人々が天の母の救いを切に待っていたという生きた証しだといえます。 父なる神様と共に、私たちの救いを成されている母なる神様に対する聖書の教えを調...
今から約三千五百年前、神様はシナイ山に降臨され、神様の御声で御自ら十戒を宣布された後、その御言葉を石の板に刻まれました。神様が命じられたすべての御言葉は成文化され、今日私たちが調べている旧約聖書の根本になりました。また二千年前、この地に人の姿で来られたイエス様の行跡と、日常的に教えられた教訓の御言葉も、すべて記録として残され新約聖書の中心になりました。 ペトロとヨハネ、ヤコブがイエス様を随行した行跡、またイエス様が多くの人に山の上で教訓を言われた場面、病気の人を癒され多くの奇跡を行われた場面、過越祭にパンとぶどう酒をご自分の肉と血として約束され新しい契約を立てられたことなどは、今日、信仰...