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テキスト説教は、印刷及び配布を禁じています。受けた恵みは、心に刻んでシオンの香りを放ってください。

使徒パウロの宣教

私たちが信仰生活をするにおいて、時に周囲の条件や状況に屈服することによってもっと難しい状況に追われる時があるのではないかと思います。一瞬の苦難に堪えられず状況論理に屈服することによって、心が傷付いて信仰が崩れてしまうのは、信仰生活において大きな危機に違いありません。
私たちは各自自分の内面世界に忠実に、搖ぎなき信仰と精神力を所有することによって困難な状況を勝ち抜くのはもちろん、どんな状況や条件の中でも宣教する姿勢と神様に対する精神を忘れてはなりません。

状況に左右されない信仰こそ本当の信仰である
ある姉妹が忙しい仕事のために、子供をしばらくシオンの家族に預けて外出先から帰ってみると、子供の世話をしていたシオンの家族が自分の子には高級そうな菓子を食べさせて、姉妹の子には安っぽくてまずそうなお菓子を食べさせているのを見ました。ふだん信仰の篤い姉妹でしたが、自分の子が冷遇を受けているという気がして、つい前後の状況を確めもせずに傷ついて怒ってしまいました。
実は子供の面倒を見ていたシオンの家族は、楽しい心でお菓子まで買ってあげて分けてあげましたが、姉妹の子供は高級なお菓子をあまり好まなかったので、他のお菓子に変えてあげたので、高級のお菓子は、自分のものとなってしまったのでした。ちょうど、その状況を見ることになった姉妹は、一瞬の感情をおさえられずそれまで続けて来た友愛の美徳を崩してしまったのです。
このような状況は、単にその姉妹だけの話ではないと思います。福音の道を歩む時も同じです。もし外的条件と環境に襲われたら、私たちもやはりそのようなことを起こすこともあります。
状況によって搖れる信仰ほど危ない信仰はありません。状況によって容易に搖らぐ人は、ある瞬間サタンが掛けたわなにかかって倒れることもあります。反対に中心が搖れないで、外的条件にかかわらず、内面世界をしっかり立てて整えて行く人は、どんな外部の論理と状況も何等影響を及ぼすことができないのです。
良い条件ではよかったが、そのような条件が整っていなかったら自暴自棄になる信仰は、神様が頼まれた「使徒パウロの宣教」精神ではありません。どんな悪条件でも福音に有益な環境に変えて行ったパウロの生涯を理解して、私たちも彼のような成熟した信仰の所有者にならなければなりません。

一コリ9:19-27 『わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです…また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです…すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。』

多くの人を救うために多様な姿にかわった使徒パウロの行為を考えて私たちも各自の位置で自分なりに最善をつくすようにしなければなりません。

外的条件に搖れない人とそうでない人
過去の出エジプトの路程を調べて見ると、イスラエルの民が最初にエジプトから出発する時と荒れ野で外的条件に接するようになった時その心や信仰の情熱が全く違うことがわかります。六十万人も越す壯年男子たちの中で外的環境に全く搖れなかった二人だけが、神様の約束どおりカナンの土地に入り、残りは皆カナンに入れずに荒れ野で倒れたのです。
水のない所では気兼ねなく不満を言い、恨みと不平をならべ、また少しでも悪い条件や困難な状況になると、すぐ中心を失って自分たちの信仰を崩してしまいました。すべてのものを創造された神様が、雲を少しでも動かせば雨を降らせることもおできになりますし、荒れ野で必要な糧を雨のように降らせることもおできになりますが、彼らは神様を信じる心を一様に維持できずに恨みことや不平ばかり言って、ついに滅亡させられてしまったのです。
しかし、同じ状況の中でもヨシュアとカレブだけは「神様は私たちと共におられる。我々をあの土地に導き入れて下さるから、彼らを恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。」(民14:8-9)と叫んで、完全に神様を信じ頼ったからこそ祝福にあずかることができました。
使徒ペトロも内的な意味をよく悟った人だったので、決して外的状況に左右されませんでした。ペトロはイエス様から試みに合うような言葉を一番多く聞いた弟子でした。甚だしくは、サタンという言葉も聞きました。彼が大きい過ちを犯したからでもありません。

マタ16:21-23 『このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」』

イエス様が異邦人たちに捕えられて十字架で息を引き取られることを仰せになる時、忠誠心があるペトロは「主よ、絶対にそんな事が主に起きてはなりません。恐れ多くも誰がそんなことをするでしょう。私が進み出ても…」と言いながら義憤をほのめかしました。しかし、お褒めにあずかるところか「サタンよ、退け。」と叱られたのですから、その衝撃がいかに大きかったでしょうか。しかしペトロはイエス様が自分をそれほど惜しまれ愛されるので、何か教訓して下さるのだということを信じて最後までイエス様に従いました。
夜明け頃、イエス様が湖の上を歩いて来られるのを見て、弟子たちが「幽霊だと思って、船の片隅で脅えている時も、ペトロは勇敢に言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」しかし、イエス様の許しを得て歩いて行った彼は強い風に襲われて水に溺れかけてしまいました。その時イエス様が「あなたの信仰が十二人の中最高だ」と激励の御言葉を受けるのではなく、かえって彼に向かって「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と叱られました(マタ14:22-33)。
私たちがそのような御言葉を言わたと仮定してみましょう。牧師にそのような言葉を言われても気を落とすほどなのにイエス様に直接そのような御言葉を言われたとしたらどうでしょう。ペトロはそのような御言葉をイエス様から直接言われました。でも彼はイエス様の御言葉は当然だと思いました。そのような外的条件にも搖らぐことなく、天国の鍵もあずかって教会の基になるという祝福にあずかることができました。

マタ16:18-19 『「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」』

これから、私たちも外的条件が自分の霊に良い影響を及ぼすことなら受け入れるべきですが、有益でないことは受け入れない、山のような多きな信仰を持たなければなりません。中心が崩れやしないか毎日自分を鞭打ちながら、キリストの御前に服従させて生きた使徒パウロの信仰を見習って、私たちの信仰生活においても自分の中心を守る行為が先に立たなければなりません。
信仰の道を歩む人は、大抵初めは肯定的で熱い心を持っているものです。イスカリオテのユダも、イスラエルの最初の王であったサウルも、初めは神様に対する信仰が篤かったのです。しかし、その過程において外的要素が作用してその影響を受け崩れてしまいました。
私たちはどんな環境とどんな雰囲気の中でも、キリストと一緖に失われた兄弟姉妹を呼び集める使命にあずかったことを忘れてはなりません。外的条件が変わって行くのは仕方がないけれど神様に対する中心だけは断じて変わってはなりません。また始めた時のその情熱がそのまま生きた状態でとこしえなる天国まで行くことができる私たちにならなければなりません。

状況と条件を信仰で造り出す者
使徒パウロがどんな環境にあるにせよ、宣教の状況を新たに造り出したように、私たちも予想外の環境に出くわしたにせよ、世の人々に福音を伝えることのできる状況を作ってみましょう。
ある姉妹は夫の実家で食事の準備をしている時、妹嫁に「これ一つ食べてごらん」と言って口に入れてあげた食べ物が、宣教と結びついて実を結んでいます。聖書を開けて御言葉を宣べ伝える状況ではありませんでしたが、そのように各自の環境に合わせて宣教をすれば良い結果を得られるようになるのです。その時その時違う環境が与えられても常に宣教という視覚から見る人の目には、すべての状況が宣教の環境に見えるのです。
ある大企業の総師は自動車に乗って道を走っていると、すべてのものがお金に見えるそうです。お金になるものが散らばっているのに、なぜ人々は拾わないのか疑問だそうです。「あれをどうにかすればお金になるのに…」と言った考えで一杯だったので財界で指折り数えられる大企業の総師になったのです。
シオンの家族が、福音に対してこのような眼目が目覚めるよう願います。ですから道を歩きながらも「あの多くの宣教対象者たち」という言葉が自然に出たらと思います。世界万国に福音を宣べ伝えなさいと仰せられたので、全員が宣教対象者ではないでしょうか。環境のせいにせず、環境を作って行くことのできる皆様になられるよう願います。
軍隊に入隊したシオンの青年は、一等兵になっても軍の中にうわさが広まると言っています。短い外出、外泊の時一緖にいた軍人たちを神様に導くのをみると、軍人の聖徒の心が熱いのを感じます。宣教することについて古参兵に呼ばれて行って叱られる時も、むしろ副士官や古参兵まで御言葉を宣べ伝えて、多くの軍人たちが真理を受け入れるという恵み深い結果が次々に起こっています。
今まで「できない」という考えが神様の福音の御業を妨げていだとしたら、これからはパウロのようにどんな環境、どんな条件においても宣教に自信をもって望む私たちにならなければなりません。場所によって福音ができる、できないと言うのは固定観念に過ぎません。勇気を出して考えを新たにして不可能は有り得ないという自信をもって臨めば必ず成就します。仏教国家でも宣教が可能であって、イスラム国家でも宣べ伝え、甚だしくは共産主義体制下でも福音が宣べ伝えられているのです。
たとえ与えられた環境が代々儒教家族であろうと仏教の家系であろうと、神様は人の心を悔い改めさせる全能なる方であることを決して忘れないでください。自分の力で悔い改めさせようとして、自分に頼って宣教しようとするから外部の状況が恐ろしく「私はだめだ」と言う考えが自分に鎖を縛りつけるのです。

使徒パウロの宣教精神
福音を宣べ伝えるにおいて使徒パウロはどんな心で臨んだか調べてみましょう。

使20:20-24 『…そして今、わたしは、"霊"に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。』

使徒パウロの宣教精神がこのようであるので、神様が喜ばれて実を下さり、各地に教会を建てるようになさいました。どこに行こうと行く先々で宣教の環境を作って行ったからです。縛られて投獄される事は当然のことでした。そうして投獄されると、そこで看守たちと罪人達に宣教して悔い改めさせたのでした。
監獄へ行っては囚人達の前で、王と王族の前に立った時は彼らの前で、時と場所を問わず、パウロの口からはキリストに対する御言葉が大胆にあふれ出ました。サタンがいくらパウロの宣教を妨げようと、びくともしませんでした。あちこちに閉じこめて見ても、監獄が決してパウロの口を塞ぐことはできませんでした。それは、監獄の中でも自由なパウロの信仰と精神があったからです。パウロはこの世の全部が宣教の場であり、人類は皆宣教の対象だと思っていたため、どんな環境でも宣教の環境に変化させることができました。
したがって、使徒パウロは誰に会っても宣教が可能でした。ユダヤ人に会えばユダヤ人の考えと立場を考慮し、福音を宣べ伝えてキリスト者になるようにし、異邦人に会えば異邦人の特性と環境を福音宣教の環境に変わらせてキリスト者に造りあげました。「律法主義に陥ったユダヤ人だからだめだろう」という考えや「偶像崇拝者であり、異教徒であるからだめだろう」という考えは使徒パウロの心には全くありませんでした。
私たちはこのようなパウロの宣教について、よく理解しなければなりません。使徒パウロ式の宣教をしなさいと言われたからといって、あるシオンの家族は自分の宣教の仕事をほうって、人たちが趣味と娯楽を楽しむ所に行って彼らと交わりながら宣教して見ようとします。それは、正しい使徒パウロの宣教ではありません。もし、普段宣教ができない状況にある方が、家族や仲間によってそのような場所に行くようになったら、その状況で宣教するのが使徒パウロの宣教の概念です。
パウロは自分の仕事をしながら、関わり合いになった人々に御言葉を伝えました。自分の仕事に忠実であるのがパウロの宣教であって、職場や学校、軍隊、どんな立場に置かれても一人の魂でも救わねばという一念で宣教するのが、使徒パウロの宣教だと言います。
ユダヤ人に会う時はユダヤ人の立場で、彼らの仲間になって彼らを救い、異邦人に会えば異邦人になって救いました。だからといって、パウロが異邦人の祭に参加して偶像の供え物を食べたりして宣教したのではありません。また宣教しないで異邦人やユダヤ人に会いに出かけて行った歩いたのでもありません。中心が崩れることなく常に神様に向かっていたから、宣教を邪魔して彼を苦しめようとする外的条件にも全く気にせず大胆に宣べ伝えたのでした。

使21:11-13 『そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。「エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。」」わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緖になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」』

今は「使徒パウロの宣教」をしなければならない時です。今まで私たちの宣教形態が画一的であったのなら、世界各所から大勢のシオンの家族が集まって来るこの時代には、彼らの文化を理解しながら宣教しなければならない「使徒パウロの宣教」が宣布されなければなりません。
神様はすでに結果を私たちに見せて下さいました。神様がすべてのものを成し遂げられたから、私たちには終わりの預言の成就を目撃することだけ残っています。神様の御計画の中に生きながら、神様の祝福に多く与かろうとする人なら今自分の感情と考え、自分のすべての信仰の姿を新たにして神様が願われる世界を築き上げているか考えて見なければなりません。

使徒パウロの宣教と義の栄冠
福音を宣べ伝える業は、神様が私たちに任せられた一番大事な職務です。直接宣教しに出掛けることだけが、宣教者の仕事ではありません。学生は学校で、社会人は職場で、事業家は自分の仕事場でいくらでも宣教することができます。どこでも、折が良くても悪くても常に宣教に励むこと、これが私たちが地上で遂行しなければならない最高の使命です。

二テモ4:1-8 『神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい…あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。』

使徒パウロが夢見た義の栄冠と天の栄光を見つめましょう。決して周囲の状況や論理に押し流される私たちになってはなりません。死んだ魚は波の流れに押し流されますが、生きた魚はその波を逆上ります。世の潮流に流れてしまう私たちになってはなりません。いかなる状況でも義を守り信仰を守って行きましょう。
聖書の中の「義人ノア」、「正しいロト」はすべての人が周囲の状況に陥っている時、常に神様を畏れることによって聖書で称えられた信仰の先駆者になりました。ソドムとゴモラの町の華やかな生活の中で神様を忘れ、放蕩している人たちの中でも、ロトは神様を忘れませんでした。外的な条件が神様に頼る信仰そのものを散らしたり破壊することができなかったのです。パウロもそうだったし、ペトロもそうでした。
私たちが聖書を見ながらこのような点を体に刻みつけ、いかなる状況に処しても賢く勝ち抜いて乗り越える知恵ある神の子にならなければなりません。中心が神様に向かって正しければダニエルのように捕われの生活の中でも貴く崇められます。しかし中心が定まらない人は、イスカリオテのユダのように外的条件が少し悪ければそのような状況に陥ってしまって天の栄光を逃してしまう哀れな霊になってしまいます。私たちはいかなる外的条件にも中心を狂わさず、ひまわりが太陽につれ向きが変わるように、神様がどこに導かれようと常に従う十四万四千人の聖徒になるようにしましょう。
周囲を眺めてごらんなさい。世界の地の果てまでが私たちの宣教の場であり、六十億の人口全てが私たちの宣教の対象です。海外は海外で、国内は国内で各自が預かったタラントンで最善をつくす努力の競走して失われた兄弟姉妹を早く捜しましょう。神様が仰せられた使徒パウロ式の忠誠をつくす宣教を立派に成し遂げるシオンの家族になるように願います。