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テキスト説教は、印刷及び配布を禁じています。受けた恵みは、心に刻んでシオンの香りを放ってください。

天の国は力ずくで襲われている

国内でも海外でも福音の炎が熱く燃えあがり、あちこちで多くの実を取り入れているという便りが聞こえます。このすべての恵み深い便りは神様の御言葉を信じて頼り「できる」という肯定的な考えで福音の御業に邁進したシオンの家族たちの考えの結果だと信じています。
時代と歴史は「何でもできる」と思う人たちによって導かれて来ました。有名な科学者トマス・エジソンも「できる」という考えで、旺盛なる実験精神を発揮して後世の科学史に永遠に残る業績を積むことができました。彼は鶏のように卵を抱いてひよこを生もうと努力して見たし、水素ガスを友達に飲ませて青空を飛んで見ようという意志を実現しようとしました。このような考えが試行錯誤をしながら進歩して科学の発展をもたらし、その結果今日には数十トンにもなる鉄のかたまりが空を飛んだり海の上を漂うようにしなったのです。
しかし反対に「それは絶対に不可能だ。できない」と考えた人々は何事にも小さな心配と憂慮によって人類に何の業績も、発展ももたらすことができなかったということを歴史は物語っています。
天の御国は「できる」という信念を持った人たちによって襲われています。私たちがどうすれば天国を襲って奪い取ることができるか、この教えを調べて見ることにします。

「できる」という肯定的な考えが天国を襲う
マタ11:12 『彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。』

天国は熱心に福音に臨む人々によって一部分ずつ襲われるのであって、じっと黙々と待っている人に与えられるのではありません。天国は襲わない人には一寸の土地も与えられません。イスカリオテのユダのように困難な時は裏切り、いいことがある時は仲間になるそのような人たちの入城を天国は絶対に許しません。
燃え盛る火の中でも神様に頼って勝利した過去の信仰の先輩たちが持っていた信仰も結局は天国を奪い取ろうとした意志から出たのです。初代教会当時使徒パウロを始め、多くの殉教者たちが火刑に処せられたり獣の餌食になったり、またのこぎりで引かれたり鞭打たれながらも、最後まで信仰を守ることができたのも、正に天国を奪い取ろうとする心からであって、その結果彼らは天国に入ることができたのです。
今も天国は襲われています。勿論、熱意もなくて熱心もなくただ教会に行こうというから仕方なしについて来る、そんな人たちは決して天国に行くことができません。彼らに天国は難攻不落の城です。
しかし入ろうとして努力する人、世のことは少し損をして犠牲にしても、霊的なことにはヤコブのように祝福にあずかろうと努力する人たちによって天国は少しずつ襲われているのです。
私たちの周囲には天国を襲う人たちがますます多くなっています。国内外を問わず大学生たちや軍の聖徒や職場の青年、学生等、多い青年達が立ち上がり天国を襲い入って来ており、壮年と婦女によっても天国は続けて襲われています。全て「神様の中で私は何でもできる」と思う人たちによって天国が襲われています。
まだためらっているシオンの家族がいたら、これからは「私もできる。」といった信念を持ちましょう。天国に必ず行かなければならないといった堅い意志さえ持っていたら誰でも聖霊の実を結ぶことができます。
神様は幼児から大人に至るまで誰にでもそれ相応の機会を許されました。幼児だからといって宣教ができないのでなく、かえって子供がお父さん、お母さんを宣教する恵み深い例もたくさんあります。

「誰もできない」という考えと「誰もができる」という考え
一時アメリカで「Nobody(ノ-バディ-、誰もいない)」というポップソングが流行したことがありました。時代に対する反抗と否定を表した歌でしたがこれが一時多くの人たちの心に共感を引き起こしたと言っています。あまりにも嘆かわしいことではありませんか。
その歌詞の内容を見れば「世に大統領になるに価する人がいるか/Nobody(誰もいない)」「戦争を止められる人がいるか/Nobody」「尊敬に価する人が世にいるか/Nobody」等否定的で、悲觀的な内容です。誰もいない、何もできない、何も成すことができないと否定的な考えが青年の間に流行病のように流行した歌詞を通じて、当時の人たちがいかに無気力な一生を生きていたかがよく分かります。
彼らの心の中がなぜそれほど否定的で悲觀的な考えでいっぱいになったのでしょうか。それは彼らの中に神様がいらっしゃらないからです。神様を尋ねずに、ひとえにこの世の快楽と満足のみを追い求めて生きているから、このような否定的な歌が世に流行するのです。本当にもどかしいことではありませんか。このような人々は、歴史を進歩させることはできません。
しかし私たちはどうですか。誰かに「大統領になる資格のある人がいるか」と問われたら何と答えますか。「Everybody(エブリバディ-、皆)」と言わなければならないでしょう。「戦争を休戦させる人がいるかと問われても「Everybody」、「尊敬に価する人がいるか」と問われても、やはり「Everybody」と答えなければなりません。皆が大統領になる資格がある人、休戦させることができる人、尊敬に価する人にならなければなりません。
真理の中にいるシオンの家族は、皆王の系統を引く祭司ではありませんか。皆が立派な地域長、区域長の資格を持っている人たちであって、立派な牧会者で、立派な宣教者です。私たちは皆できます。また誰でもなることができます。
不可能だと予め決めてかかると信仰というスイッチが作動しません。信じて実行しない全ての事が罪だと仰せになりました。そのような罪を犯しながら魂を救うことはできません。
天国が力ずくて襲われているこの時代に生きていることを考えながらそれぞれの立場で福音に励まなければなりません。福音を先頭に立ってしようと、側面でしようと、人の目に付かないところで助けの手を延ばそうと、ごく小さなことでも天国のために尽くすという自負心を持つように願います。

フィリ4:10-13 『…わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。』

使徒パウロは魂の救いという目標を持って生きていたので一切の秘訣を学び、わたしに能力を下さる神様のお陰で、わたしにはすべてが可能だと言いました。ですが、私たちが自ら「私はできない」「宣教するには、せめて誰かのようにならなければ」という考えは神様の教訓に逆らうことではありませんか。
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能だと信じて、その信仰どおり仕事を進行すれば、いかなることでも必ず成し遂げられますが、「できない」という考えでためらったり、やめてしまえば何事も成し遂げることができません。「できない」と言った否定的な考えではただの一歩も前に進むことはできません。
私自身の力ではなく、神様に頼って行けば不可能なことはありません。シオンは神様が一緖におられ、神様が助けて下さいます。このような事実をときに忘れたら「私はだめだ」、「働き手の資格のある人がいない」という否定的な考えをするようになります。それが正に「Nobody」精神です。
もしこのようなNobody精神を持っていたら、果して神様の御旨どおり天国を襲う行く教会と言えるでしょうか。決してそうではありません。これからは誰もできないというNobody精神は、聖霊の炎で焼いてしまって、皆できるというEverybody精神に変えてみましょう。

ヘブ11:1-6 『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです…信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。』

ヘブライ人への手紙に記録された信仰に対する定義を、口語訳では「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」と説明してあります。この信仰の中には、すべてが可能であって、すべてできて、すべて成就する肯定的要素が含まれていて不可能なことを可能にするのです。
神様が実を結ぶことができる者に実を結びなさいと仰せられたのであって、実も結ぶことのできない無生物に実を結びなさいとは言われませんでした。「Nobody」という否定的な考えが「Everybody」という肯定的考えに変えられたら、私たちは必ず実を結ぶことができます。そのような信仰を持って神様の栄光顕現により尽くす私たちにならなければなりません。

信仰で入って行く天のカナン
いつか新年の朝のTV番組で、ある名士の成功談を聞いたことがあります。彼女は小さい体の韓国の女性ですが、あらゆる試練を克服してアメリカで堂々と成功し、指折りの有名な財閥になりました。彼女の成功の秘訣はただ一つ、「できる」という信条でした。彼女は自分と関わりのある人たちには徳談(幸せを祈る言葉)としていつもこのような語りを聞かせるそうです。「Hecando、shecando、whynotme?」(彼もできるし、彼女もできるのに私にできないはずがない)
このようにできるという考えの持ち主は、広大な砂漠でも巨大な都市が建設できますが、できないと考える人はその砂漠を荒れ果てた砂漠のままほうっておくだけです。
私たちは神様から世を諭して、人々の魂を天国に向けて悔い改めさせる使命にあずかったのです。この事は全然不可能な事ではありません。神様は無から光を創造され、天と地を創造され、海を造って、海で生きる各種の生き物と地で生きる獣、そして空を飛ぶ鳥類を造られました。始めからこの地上に存在しなかったものにもかかわらず、皆創造されました。無から有を創造された神様の創造の御業に比べたら、すでに創造されておかれた十四万四千人を捜すことは容易なことです。
聖書でも「できる」という信仰を持っている人と「できない」とあきらめた人の相反する結果が明らかに記録されてあります。この内容を調べてみれば必ず入ろうとする信仰的覚悟と態度のある人々に天国が許されるという事実を悟らなければなりません。

民13:30-14:30 『カレブは民を静め、モ-セに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」しかし、彼と一緖に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した…共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモ-セとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった…妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」…ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた…「あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる」…主はモ-セとアロンに仰せになった…お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録をされた二十歳以上の者はだれ一人、わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。』

私たちがよく知っている12人の偵察隊の話です。12人の偵察隊の中10人はあきらめて「Nobody」を連発しました。「カナンの地に入る人がいるだろうか。Nobody」、「カナンの地に入って生きる人がいるだろうか。Nobody」否定的な偵察隊の言葉に全イスラエルの民が泣きわめきました。できないという考えが広がると、いっそのこと荒れ野で死んだ方がよかったという敗北意識が頭をもたげ、彼らは壮大な将師のようで自分たちは一匹のいなごのようだという劣等感が心を押さえつけ始めました。
皆不可能だと放棄したので、神様は彼らが考えたとおりカナンの地に入らせませんでした。各自の考えどおり信仰どおりに執行されました。
しかし、ヨシュアとカレブの二人だけは「私たち皆(Everybody)カナンの地に入ることができる」と叫びました。彼らは今日まで、私たちの立派な信仰の手本になり、難しい状況の中でも神様が一緖におられるから立派に成し遂げられるという教訓を残したのです。

「できる」と考える人が天国を受け継ぐのです
できると考える人が多くいてこそ、福音は前に進むことができます。過去荒れ野時代の歴史は、今日を生きている私たちの教訓のために記録されたのです。過去の歴史を通じて見ると、永遠の天国に最終的に入ることのできる人たちは「できる」という肯定的な考えを持った人に違いありません。
この瞬間からでも「私たちはできない」、「わが地域はまだまだだ」、「わが区域は難しい」等の否定的な考えを棄てましょう。できないといった考えは、私たちをどんどん後退させ沈滞させます。ヨシュアとカレブのように神様に頼って、できるという考えをもち、力一杯の前に進んで行きましょう。
できると思う信念の持ち主は、1%の可能性さえあれば何でも可能ですが、不可能だと考える人は99%の可能性があっても成し遂げられません。ゆえに神様は「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる」(マタ17:20)と仰せになりました。
神様に頼ってできるという信仰を持っていれば、私たちは必ずできます。私たちの考えを完全に変えてみましょう。私たちの心の中にヨシュアとカレブのような信仰さえあれば、エリコ城が崩れ落ちたようにバビロンの崩壊の日も遠くありません。鉄の城のようなエリコも、神様の前では砂の城のように崩壊したのです。何でもないもののように、草のように焼きつくされ滅亡させられました。
堅固に見える霊的バビロン城も、神様の御力の前では何でもないもののように、草のように焼きつくされるでしょう。大胆な気質と肯定的信仰を持ってこの瞬間からでも天の御国を襲って行くシオンの家族になりましょう。

イザ14:24 『万軍の主は誓って言われる。「わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。』

神様は預言を通じて、神様の経営(計画された御業)は皆成就されると仰せになりました。また神様を信じている私たちに「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」という教訓も下さいました。今こそ「あなたがたの信じているとおりになる。」と仰せられた御言葉を覚えて、天の倉を麦で一杯にして天の御父様・御母様に栄光と喜びをささげる堅固たる信仰を持つようにしましょう。
世はできるという信念の持ち主のものです。天国も同じです。できないと考える人が獲得する空間は、自分の寝起きする部屋の外にはありませんが、できるという信念の持ち主は全世界を得ることができます。そして宇宙の銀河系を抱くことができる天の王のような祭司長になるのです。
今からでも「私は宣教ができない」という考えより、「神様が共におられるので不可能はありえない。できないのは私に問題があるのではないか」と顧みて「私に能力を下さる神様のお陰で私にはすべてが可能だ」という堅固たる信仰を持って福音に臨むよう願います。そうして信仰ですべてが可能ですべてを成就するシオンの家族になられるよう願います。
天国は襲われています。襲う所に私たちの足跡を残しましょう。襲った私たちの跡形を天国に残して、御父様が降臨されるその日、豊かな実を誇って喜んで天国に入城する私たちになるよう願います。