한국어 English 中文简体 Deutsch Español हिन्दी Tiếng Việt Português Русский ログイン加入

ログイン

ようこそ

神様の教会世界福音宣教協会ウェブサイトをご訪問くださり、ありがとうございます。 このウェブサイトは、聖徒だけが接続できます。
ログイン
WATV ID
パスワード

パスワードを忘れましたか? / 加入

テキスト説教は、印刷及び配布を禁じています。受けた恵みは、心に刻んでシオンの香りを放ってください。

世を目覚めさせる声

聖書では、その時代ごとに世を目覚めさせる声で、多くの魂たちを救いの道に導いた歴史を見ることができます。ヨナ預言者の呼びかけがそうであり、ペテロの宣教がそうでした。

鶏の鳴き声が夜明けを告げ、寝ていた人々を目覚めさせ起こすように、神様の福音を伝える聖徒の声が、暗黒の闇であるこの世を目覚めさせる声にならなくてはいけません。暗黒の霊的混沌時代に、私たちが世を目覚めさせる声を発しなくては、人々は霊的な時刻がどの辺りまで至ったのか誰も知りえないでしょう。深い眠りに落ちている魂たちを、はっきりとした声で正しく目覚めさせ、地獄に向かって進んで行くしかない足を全て天国に導かなければなりません。

「あと40日すれば、ニネべの都は滅びる」
ニネベを目覚めさせたヨナの宣教

ヨナ1:1-17、2:1 『主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして…折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。…彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。…ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。』

神様はアッシリアの首都であったニネベの都にヨナを送られ、行ってニネベの人々を目覚めさせる声を発せよと言われました。

ニネベの住民は神様を信じず、イスラエルの民を苦しませた人々でした。ヨナはニネベに行き神様の御言葉を伝えるとなると、自分の命が危うくなると考えて、タルシシュに逃げようとしました。しかし、世を目覚めさせる使命を受けた預言者として、すべきことをせず逃げたゆえに、大きな試練に遭うことになり、結局悔い改めた後、ニネベに行き神様の御言葉を宣べ伝えることになりました。

ヨナ3:1-10 『主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。…ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった…そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。』

ヨナが神様の御言葉で世を目覚めさせる声を発すると、ニネベでは王に始まり12万人の住民たち、甚だしくは家畜に至るまで皆が粗布をまとって断食するようになりました。ヨナの叫びはニネベ住民の霊的感覚を目覚めさせ、悔い改めの御業を成し、それにより災いを免れる恵み深い結果をもたらしました。

「悔い改めてキリストの名によって浸礼を受けなさい」
エルサレムに響いたペトロの宣教

世を目覚めさせる声を発しなかったら、世は永遠に暗闇の中で眠っているしかありませんが、この声を発すれば世の万民が深い死の眠りから目覚め起き上がるということを、聖書は私たちに教えてくれています。ヨナだけではなくペトロの行跡にも、1日に3千人を悔い改めさせ、神様に罪を告白し進み出でさせた御業を見ることができます。

使2:14-36 『すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。…だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」』

使2:37-41 『人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス様の名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。…「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。』

ペトロは聖霊の感動を受けて神様の御言葉を声高に伝えました。真の光であられるキリストを悟れずに、暗黒の中に身を置いていた3千人の魂は、彼の説教で目覚めキリストを受け入れるようになりました。

神様はヨナとペトロに許された世を目覚めさせる声を、私たちにもお許しになりました。鶏に夜明けを告げる鳴き声をくださったように、聖徒に世を目覚めさせる特別なタラントンをお許しになったのです。それでは、私たちが黙っていてはいけません。行って、世を目覚めさせる神様の真の民に皆がならなければなりません。
もし、ペトロがただ黙って何も叫ばなかったら、一日に3千人にもなる魂を悔い改めさせられたでしょうか?私たちが世を目覚めさせる声を発しなければ、人々は霊的な深い眠りに就いているしかありません。

神様の声で世を目覚めさせる霊的な見張り

神様を信じる聖徒は、真理の見張りとして立てられました。ですから、私たちがすべきことは、世の中を目覚ます声を発することです。

エゼ3:17-21 『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。わたしが悪人に向かって、「お前は必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに 問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった 場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。』

エゼ3:7-11 『彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない。更に主は言われた。人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、「主なる神はこう言われる」と言いなさい。…』

この御言葉は単に預言者エゼキエルのみに下さったのではなく、神様を信じる全ての聖徒に同時にくださった約束の御言葉です。

見張りの使命を授かり、神様の御言葉を伝える時には、付け加えたり、取り去ることなくそのまま伝えてこそ、世を悔い改めさせ救いの道に導くことができます。

黙22:18-19 『この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。』

この聖句は、神様の御言葉をそのまま伝えなくてはならない私たちの使命を、もう一度確かめさせてくれています。世はサタンの鎖に縛られ、暗黒の中で神様の真の御心を知ることができずにいます。神様の聖徒たちは、暗闇の世をただ放っておくことなく、神様の御言葉をあるがままの形で伝えしきりに目覚めさせていかなければなりません。

神様の秘密、キリスト

私たちが福音をサマリアと地の果てまで宣べ伝える時、その福音が世を目覚めさせるラッパの役割を忠実に果たすことができます。福音の御言葉の中で最も重要な秘密がキリストです。

コロ1:23-27 『ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。…世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とはあなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。』

神様は、終わりの時代に生きている私たちを救いの道に導かれるため、私たちに最も重要な秘密であられるキリストについて教えてくださいました。キリストについて証しする本がまさに聖書です(ヨハ5:39)。ですから、人の思想や哲学を加えず、あるがままの聖書の御言葉から人類の贖いのための神様の摂理を理解しなければならないでしょう。

世の初めから代々にわたって隠されてきた秘密であられるキリストについて聖書は次のように証ししています。

ロマ5:12-14 『このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。…しかし、アダムから モーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。』

ここで、「来るべき方」はイエス様を表しています。アダムはキリストを前もって表す者だったと言われたことには、非常に重要な意味があります。神様は最初の人間であるアダムを創造され、彼のあばら骨でエバを創造されました。ですから、人々がアダムについて言及するときには、必ず彼の妻であるエバが対で登場します。

アダムがキリストを前もって表す者であるなら、アダムの妻エバは誰を前もって表す者でしょうか?聖書の中に表されたキリストについての秘密を知ろうとするなら、神様がアダムとエバをなぜ創造され、アダムをなぜキリストについて前もって表す人物として造られ、アダムの妻であるエバはキリストとどんな関係があるのか、この全ての問題についての解答を聖書を通して見つけなければなりません。

小羊の花嫁、母なる神様の存在

ローマの信徒への手紙でアダムとして表されているキリストについて、使徒ヨハネはどのように記録したのか調べてみましょう。

黙19:6-8 『…こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」』

ヨハネの黙示録の中で、小羊は再臨のイエス様を指す用語です。使徒ヨハネは、黙示を通して小羊のみ見たのではなく、小羊の妻、即ち花嫁を見ました。この小羊の妻について、21章では次のように説明しています。

黙21:9-10 『…さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、"霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。』

天使が小羊の妻である花嫁を見せてあげようと言い、天から下って来るエルサレムを見せたと言いました。天のエルサレムが私たちとどんな関係にあるのか、説明してくれる聖書の御言葉を調べてみましょう。

ガラ4:26 『天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。』

天のエルサレムは、天にあるエルサレムを意味します。小羊であるキリストは、聖三位一体の観点から見ると、私たちの天の父であられるので、父の花嫁ならば、私たちにとって霊的な天の母であられます。

神様が人類の救いの第一幕を開けられた創世の記録の中でも、霊の父と母の存在をもう一度確かめることができます。

創1:26-27 『神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。』

人を創造された神様は、お一人の神様ではなく、「我々」という複数の神様であられました。神様が御自分にかたどって男と女を創造されたという御言葉から、結局神様の御姿には、男と女の姿が内在されているということを確かめることができます。
男の姿をされた神様を、人類は数千年間父なる神様と呼んできました。マタイによる福音書を見れば、イエス様が弟子たちに祈祷文を授けられる時、「天におられるわたしたちの父よ」と教えられた内容もあります(マタ6:9)。それでは女の姿をされた神様は、どのように呼ぶべきでしょうか?

ガラテヤの信徒への手紙では「わたしたちの母」と言いました。聖書の中には「わたしたちの父」もおられ、「わたしたちの母」も明らかに存在されます。

アダムとエバが“霊”と花嫁につながる聖書の初めと終わり

聖書はキリストについての秘密が、世の初めから代々にわたって隠されていたと言いました。隠されていたという言葉は元々無かったのではなく、存在していたものを隠しておいたという意味です。世の初めから代々にわたって、創世時から隠しておいたキリストの存在を悟ることが、神様の秘密を悟ることになります。

全ての命は母親によって誕生します。私たちの霊の永遠なる命も、霊の母によって与えられるようになっています。従って、父なる神様と母なる神様を完全に信じてこそ、永遠の命に至ることができるのです。

今日、世の宗教家たちは天の母に対する聖書の御言葉はすべて取り除いてしまい、唯一、父なる神様お一人が天地を造られ、人類を創造されたと言います。彼らは神様の御言葉を削除しようとする愚かな努力をしています。しかし、神様は誰でも聖書の御言葉から何か取り去れば、聖なる都、即ち神様の国に入ることができる特権も取り除くと言われました(黙22:19)。人の言葉ではなく、神様の御言葉を聞いて聖書の御言葉を頼ってこそ、救いを得ることができます。

ヨハネの黙示録では、最後のアダムであるキリストが、彼の妻と共に現れる場面を見せてくれています。聖書の初めの部分から登場されるエロヒム神様が、聖書の終わりの部分で子供たちに御自分の存在を再び現され、世の初めから代々にわたって隠されていた秘密を全て教えてくださっています。創世記からヨハネの黙示録にわたる全ての真理の繋がりを正しく理解し悟った時初めて、私たちは父なる神様にも賛美をささげ、母なる神様にも栄光を帰すことができるのです。

黙22:17 『“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。』

19章では小羊と花嫁、21章では小羊と彼の妻である花嫁となっていますが、22章では“霊”と花嫁となっています。聖霊の神様はキリストであられ、父なる神様を意味するので、花嫁はキリストの妻、即ち創世記1章に現れた母なる神様を意味するということを理解できます。

聖書66巻の中で創世記1章は初めの章であり、ヨハネの黙示録22章は終わりの章です。創世記1章では父と母なる神様が「我々が、我々にかたどり、人を造ろう」と言われ、男の姿と女の姿を造られました。その神様が、終わりのヨハネの黙示録22章では、“霊”と花嫁として現れ、人類に「命の水を飲みに来なさい」と言われ、この御言葉から決して付け加えたり取り去ったりするなと言われました。

“霊”と花嫁の御声で世を目覚めさせよう

救いに至るためには、聖書の御言葉をそのまま見つめることのできる視覚が必要です。預言者ホセアはすでに、「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」(ホセ4:6、口語訳)と言いました。御言葉が果たしてそうなっているのか、聖書にあるのかをいつも調べながら、父なる神様、母なる神様の御心を奉じ、永遠の命と救いに近付くシオンの家族の皆さんになられるよう願います。

聖書の教えどおり生きる人々ならば、父なる神様だけ信じるのではなく、必ず母なる神様も信じる信仰を持たなければなりません。父なる神様と母なる神様である“霊”と花嫁の御声で、世を目覚めさせなければなりません。世の初めから代々にわたって隠されてきた神様の秘密を悟り、この知らせを世の全ての人に知らせてあげる、世を目覚めさせる声を発しなくてはいけません。

神様は私たちに世を目覚めさせる声をくださいました。夜明けの時間を知らせる鶏のように、私たちが夜明けを目覚めさせなければなりません。暗闇の世を福音の声で目覚めさせ、父なる神様と母なる神様を正しく信じ、畏れ敬って救いに至れと言うこの叫びを、ヨナよりさらに力一杯、ペトロよりもさらに力強く発してくださるようお願いいたします。