悔い改めよ、天国は近づいた
「悔い改めよ、天国は近づいた!」
約2千年前、イエス様がこの地に来られて30歳でバプテスマを受けられ、福音を伝え始められる時に叫ばれた第一声がまさにこの御言葉でした(マタ4:17)。イエス様の御言葉には、人類が悔い改める心で天国に行く準備をすることを願われる御心が込められています。神様の国が迫っている時に、すべての人々が悔い改める心で正しく生きていき、天国に到達することを望まれたので、悔い改めよという御言葉で宣教の門を開かれたのです。
昨年よりは今年、昨日よりは今日、永遠なる神様の国は私たちにどんどん迫っています。その近づいている天国を考えながら、私たちはどうすれば神様が望まれる真の悔い改めに到達できるのか、聖書の教えを調べてみましょう。
悔い改めない者に臨む滅亡
私たちが守る角笛祭、大贖罪日、仮庵祭の秋の祭りには悔い改めの意味が込められています。仮庵祭は宣教が中心ですが、真に神様が望まれる宣教をしようとするなら、悔い改めが土台になければなりません。悔い改めが基盤になっていない宣教は何の意味もありません。
預言的に見ると、私たちは仮庵祭時代を生きています。まずは自分自身の罪を正しく認め、その罪を心から深く悔い改める必要があります。このように悔い改めた心で、自分以外の魂たちも悔い改めさせることが、この時代を生きる私たちがなすべき悔い改め運動です。
詩7:11-13 『心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神。立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし/弓を引き絞って構え』
神様は柔和で正しく善良な方ですが、悔い改めない人々に対しては、剣を鋭くし、弓を引き絞って構えていらっしゃると言われました。悔い改めない魂はこのように滅ぼされてしまうので、神様は人類に悔い改めを促しておられます。悔い改めなさいという御言葉には「天国に入れる充分な条件を身につけなさい」という意味が含まれています。
エゼ18:30-32 『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。』
上の御言葉には、悔い改めず死んでいく魂たちを哀れまれる神様の御心がよく表れています。新約においても、神様は、悔い改めない者たちは皆滅びる、と明らかに言われました。
ルカ13:1-5 『ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」』
「悔い改めよ」という御言葉で宣教を始められたイエス様がこのように繰り返し悔い改めを促されるのは、悔い改めがない人生には滅亡と死と地獄の苦痛が待っているからです。
私たちがシオンに入ってきて神様の御恵みの内にいるからと言って、いい加減にしても、救いを受けるという訳ではありません。永遠なる天国に行くにはそれなりの準備が必要です。神様は私たちに、唯一悔い改めて帰ってくる信仰を望まれるので、自分は果たして神様の教えどおりに行っているのか、いつも御言葉で自分を吟味し振り返りながら悔い改める人生を生きなければなりません。
罪人を呼び悔い改めさせに来られた神様
私たち人間は本来、天国で罪を犯しこの地に追放され降りて来た天使たちです。私たちはもともと罪人なので天国に入ろうとするなら、悔い改めなければなりません。イエス様がこの地に来られた理由も、罪人たちを呼び集め、悔い改めさせるためでした。
ルカ5:31-32 『イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」』
ここで言う罪人とは、天の天使世界で罪を犯した魂たちを意味します。罪人である人間たちには、天国で犯した罪もあり、地上に降りて来てから知らず知らず、神様の御前に犯した様々な罪もあります。それにもかかわらず、人々はこの罪悪の世で心が鈍くなり罪を罪として感じられないまま、生きています。
悔い改めなしには、天国も、救いもあり得ません。天で罪を犯し追い出されてきた霊的な罪人たちが、悔い改めなしに天国に帰ることはあり得ないことではありませんか。それで、悔い改めよと言われました。神様は罪人なる子供たちが悔い改め、帰ってくるのを切に待ち望んでおられます。
ルカ15:4-7 『「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友逹や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」』
天国で九十九人の正しい人がどんなに多く神様に栄光を帰し、喜びをさしあげる存在なのか、私たちはとても計り知ることはできません。けれど、神様は一人の罪人が悔い改めたら、彼らよりももっと喜ばれると私たちに教えてくださいました。
それでは、一人の罪人が悔い改めることは、決して簡単ではないという事もまた分かります。子供が生まれたからと言って、両親がただ放っておいたら、子供一人でしっかりとした成人に育つことはできないでしょう。時に応じて食べさせ、愛も与え、また正しいことと過ったことを区別し、悪は遠ざけ正しく善良なことができるよう指導すべきであるように、一人の魂を悔い改めさせる時もそのような苦労が必要です。
信仰生活を始める人は悔い改めを完全に成したのではなく、悔い改めを始める第一歩を踏み出した状態です。その人がバプテスマを受けたからと言って、宣教が終わったのではなく、その一人の魂が正直に神様の御前に自分の罪を告白し、悔い改め、永遠なる天の栄光にあずかるまで、私たちが教えたり助けたりすべきことがたくさんあります。神様の御言葉を正しく教え、サタンのものと神様のものを見分ける能力も育てなければなりません。こんな過程を通して、その人は自分の罪を反省し、また他の魂を悔い改めさせようと努力し、真の悔い改めの道に進んでいけるのです。
悔い改めの実で成す真の悔い改め
一人の魂がそうして悔い改めるまで、私たちの心は深く傷付くことも多くあります。その過程を通して、以前私たちが、頑なで悔い改めない心のせいで、天の父、天の母の御心をどんなに痛めさせたのかを改めて悟り、より深く悔い改めることができるようになります。
自分が深く悔い改めた時、他の人も悔い改めに導けるのであって、悔い改められない人は他人を決して悔い改めさせることができません。それゆえ、その実でその人が分かると言われました(マタ7:20)。神様は私たちがどのように悔い改めているかを実を通して調べておられます。
これまでこの世に染まっていた汚れを全て取り除き、天の人として、唯一神様の御言葉の内で生きて行こうとすれば、何よりも心から悔い改めねばなりません。宣教は神様に、私たちの愛を行動で表現できる方法であり、また真に悔い改めた人だけが可能な行いなのです。
一テサ2:1-4 『兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。』
福音を伝えることは誰にでも委ねられたのではなく、神様に正しいと認められた人々だけに委ねられました。宣教はつまり人が真に悔い改めたという事実を表す行いであると言えます。その過程では、お産の苦痛にたとえられるほどの、困難が伴いますが、その困難を勝ち抜き、私自身ではない、他の人を悔い改めさせるという意志を持つ時、私たちは神様の御前に本当に悔い改めた人として認められるのです。
このように悔い改める機会をくださるのにもかかわらず、その機会を逃している残念な人もいます。旧約の歴史でも、エサウが長子の権利を弟に譲ってから、後になってその価値を悟り再び祝福を受けたいと望みましたが叶いませんでした。彼は大声で泣き叫びながら少しでも残った祝福を求めましたが、悔い改める機会は得られませんでした(創25-27章、ヘブ12:16-17参考)。
私たちに与えられた悔い改めのチャンスを逃してはなりません。この世の中の出来事にはすべて時があると言われた御言葉のように、働ける時があり、働けない時があります。働けない時には何千万回悟ったとしても、働く条件と機会は与えられません。
全てのことはこの瞬間が最も重要です。既に過ぎ去った時間を取り戻すことはできませんが、これからの時間はいくらでも新しく形作っていくことができます。過ぎし日の過ちをすべて拭い去る機会が私たちに与えられています。天の父が来られるその瞬間までは機会があります。それゆえ、今すぐ行いましょう!「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われた御言葉のように、明日からしようとしても、もうそれ以上機会が得られなかったら、どんなに悲惨でしょうか?
二テモ4:1-5 『神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。』
折が良くても悪くてもいつも宣教に励みなさいという御言葉は、折が良くても悪くてもいつも悔い改めの時間を持ってくださいという意味です。真に悔い改めた人々だけが神様に正しいと認められ、正しいと認められた者だけに神様は福音を伝えることを任せられたのです。
天の罪人である私たちができる務めとは、悔い改めること以外にはありません。私たちだけ悔い改めて終わるのではなく、他の人を悔い改めさせて、神様に導きこの世を浄化させることが、今私たちがしている宣教という仕事です。
悔い改める人が入る天国
すでに永遠なる天国が近づいて来ています。神様の国に行く日は近づいていますが、誰も悔い改めずにいたら、果たして天国に入れる人がいるでしょうか?
天国を望む人には悔い改めが絶対に必要です。唯一、悔い改める人だけが天国に入ることができます。
タラントンのたとえの中でも、5タラントンを残した者と、2タラントンを残した者は、イエス様が神様の喜びの宴に共に参加しなさいという御言葉をくださいました。タラントンを残したということは、それだけ罪人たちを悔い改めさせたという意味になります。子供を育てる時も、両親は様々な問題で気をもむように、一人の魂を悔い改めさせようとすれば、一層気をもむことが多く発生します。そのようにして手にした実なので、神様は5タラントン残した者にも祝福をくださり、2タラントン残した者にも、それに応じて祝福をくださったのです。
1タラントン埋めておいた者は、そんな苦労をしたがらなかった人です。言い換えれば、悔い改めたくないという意志を表明したために、イエス様はその人を外の暗い所に追い出せと言われたのです。他の人々は、悔い改めたのでまた他の悔い改めのタラントンを得ることができましたが、1タラントンを埋めておいた者は、悔い改める意志がありませんでした。そのため、彼を追い出し彼のタラントンを取り上げて、10タラントン持っている者に、更に与えるようになさいました(マタ25:14-30)。
実がないまま一日一日を過ごすのではなく、今日悔い改めという文字を心に刻み、神様の御前に切に祈りをささげてみましょう。本当に私が悔い改めなければならないことは何なのか、また私たちを悔い改めさせるために辛く苦しい肉体の幕屋をまとわれ、この地まで来られた天の父と天の母が全世界の数多くのシオンの家族たちを皆悔い改めさせ、一人一人の魂の世話をされながら、どんなに気をもんでいらっしゃるか、父なる神様に今この瞬間すぐに会うとしても、私は果たして恥ずかしくなくその御前に純金のように精錬された姿で出て行けるか、自分自身をもう一度深刻に振り返る時間を持ちましょう。
悔い改めという文字を胸深く刻み、本当に悔い改めた心で神様の御前に出て行きましょう。全世界のシオンの家族全員が悔い改めるよう願います。私たちが悔い改めを完全に成し遂げれば、一日に数千、数万人が帰って来ることができます。「実」は悔い改めの結果です。「悔い改めに相応しい実」を結びなさいと言われたように、悔い改めがまともに成されて初めて、相応しい実を結ぶことができます。
悔い改める心で一人一人の魂を生かそうと力を尽くす時、真の神殿の材料を集め天の神殿が完工されることでしょう。モーセ時代の歴史がそうだったように、神殿の材料を全て集めた後には、どんなに多くの材料を持って来たとしても意味がありません。悔い改めが可能な機会のある間に、一人の魂でも更に悔い改めさせ救おうと思う切なる心で、自分自身から悔い改め、また他の人々を悔い改めさせる神様の宣教運動に全員が参加しましょう。そして、熱心に悔い改め熱心に宣教する美しく恵み深い人生を生きてくださるようお願いいたします。