한국어 English 中文简体 Deutsch Español हिन्दी Tiếng Việt Português Русский ログイン加入

ログイン

ようこそ

神様の教会世界福音宣教協会ウェブサイトをご訪問くださり、ありがとうございます。 このウェブサイトは、聖徒だけが接続できます。
ログイン
WATV ID
パスワード

パスワードを忘れましたか? / 加入

テキスト説教は、印刷及び配布を禁じています。受けた恵みは、心に刻んでシオンの香りを放ってください。

誰が福音の奇跡を起こすのか

聖書の歴史を調べてみると、神様は重要で決定的な時期に奇跡を起こし御自分の民を救われました。葦の海(紅海)を裂かれた御業や、40年間60万人の壮年たちと彼らの家族まで一日も欠かすことなくマナを食べさせてくださった御業や、また岩を打って水を出された御業のように、イスラエルの民に困難がある時は神様が驚くべき方法で道を開いてくださる場面を確認することができます。

それでは、この時代には誰が福音の奇跡を起こすのか、これに対する答えもやはり神様です。私たちは天でサタンに惑わされこの地に追い出されてきたので、今もサタンが惑わしたならば、いつでも惑わされる軟弱な存在です。しかし、私たちをいつも掴んでくださり、導いてくださる天の父と母がいらっしゃるので、弱かった私たちも強い存在になれるのです。

福音を伝える時も、私たちの内に天の父と天の母をお迎えして行ってこそ、奇跡が起きます。私たちはこの時代、誰が福音の奇跡を起こす主体なのかを正しく認識して、どこに行っても常に神様と同行しなければなりません。仰せられたとおりに実践していくことが、神様と共に同行する姿だと言えます。

奇跡の主体であられる神様

神様は、アマレクとイスラエルの戦闘で、モーセの腕を上げ勝利できるようになさり、ヒゼキヤの病気を癒され、15年もの寿命を延ばすしるしとして影が後ろに退くようにもなさいました。過ぎし日の歴史を調べながら、福音の奇跡を起こす主体が誰なのかについて、考えてみることにしましょう。

出17:8-13 『アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。』

アマレクとの戦闘で、モーセが手を上げると、ヨシュアが率いるイスラエルの軍隊が勝利する奇跡が起こりました。これはモーセの業でもなく、ヨシュアの業でもありません。裏でこんな業を可能にしてくださった神様の御業でした。
アモリ族との戦闘でヨシュアの軍隊が得た勝利も、ヨシュアの能力によるものなのか、神様が施してくださった奇跡によるものなのか、一度見てみることにしましょう。

ヨシュ10:5-13 『アモリ人の五人の王、すなわちエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たちとその全軍勢は連合して攻め上り、ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた。…主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」ヨシュアはギルガルから夜通し軍を進め、彼らを急襲した。主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、ヨシュアはギブオンで敵に大打撃を与え、更に彼らを追ってベト・ホロンの坂道を登り、アゼカ、マケダまで彼らを追撃した…。彼らがイスラエルの前から敗走し、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主は天から大石を降らせた。それはアゼカまで続いたので、雹に打たれて死んだ者はイスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。「日よ とどまれ ギブオンの上に/月よ とどまれ アヤロンの谷に。」日は とどまり/月は 動きをやめた/民が 敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。』 

アモリ族との戦争は、日が落ちて辺りが暗くなると、イスラエルの軍隊にとって不利な状況でした。ところが、太陽が動かずに、ほとんど終日中天で留まっていました。これはヨシュアの能力でも、その軍隊の戦力でもありませんでした。唯一神様が起こされた奇跡であり、これによりヨシュアの軍隊が勝利を得ることができたのです。

結局、勝利は神様にかかっています。私たちが聖書の教えを通して、誰がこの時代に福音の奇跡を起こせるのか、明らかに答えを見つけて、いつも神様に頼るなら、神様は肉の戦争だけでなく、福音の終わりの御業でも敵であるサタンと争い、勝利して、多くの魂たちを救いの道に導く栄光と喜びを私たちに必ずお許しくださることでしょう。

神様が見せてくださった他の奇跡の御業を通して、私たちの神様が全知全能なる方であることを、もう一度心の奥に刻んでみることにしましょう。

王下20:8-11 『ヒゼキヤはイザヤに言った。「主がわたしをいやされ、わたしが三日目に主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」イザヤは答えた。「ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって主は約束なさったことを実現されることが分かります。影が十度進むか、十度戻るかです。」ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ影を十度後戻りさせてください。」そこで預言者イザヤが主に祈ると、主は日時計の影、アハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせられた。』

神様は贖いの御業の中で、天体の運行まで変更させられました。日時計の影を十度後戻りさせられたということは、太陽が進む方向を逆にされて、後戻りさせられたということです。地上で見ると、太陽が東から西に進むべきですが、逆に西から東に動いたなら、まことに驚くべきことだと言うしかありません。

神様が営まれる福音の御業

このような驚くべき奇跡を起こされた方は、まさに神様でした。それにもかかわらず、イスラエルの民は危機に瀕すると、神様をすぐに忘れてしまいました。12人の偵察員がカナンの地を偵察して来て、モーセとイスラエルの総会の前で報告する時も同様でした。ヨシュアとカレブは「神様が私たちと共にいらっ
しゃるので、私たちが攻めに行こう。彼らは私たちの餌食だ」と信仰の勇気を見せましたが、残りの10人の偵察員の否定的な言葉を聞いたイスラエルの民は、恐怖に震えながら神様とモーセに向かってためらいもなく恨み言を言いました。

これについて、神様は、モーセとイスラエルの民の前に御自ら栄光を現されて仰せられました。

民14:11 『主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。』

どんなに奇跡を見せてやっても信じない民に、神様は「お前たちはいつまで私を信じないのか」と言われました。存在しなかった地球を御言葉で創造なさり、旧約から新約に至るまで全ての奇跡の御業を起こされた方が神様です。このように、全能でいらっしゃる神様が私たちと共におられることを決して忘れてはなりません。

神様が導かれる福音の御業に、私たちがお召しを受けて、微力ながら共に参加しています。小さいこと一つでも天の父と天の母の御心に沿って動こうと努力すれば、神様はその姿を喜ばれます。両親は走りの速い陸上選手よりも、よちよちしながらも歩こうと努力する幼い子の姿を見てより感動するものです。それで、やっとのこと一歩ずつ足を踏み出す子供をがばっと抱きあげることもあり、子供の力では長い道のりを行くべき場所も一気に行けるように助けてあげたりもします。このように私たちが、上手にはできなくても、御言葉に従順に従って行いなさいと言われた事に専念したら、神様が感動なさり福音の奇跡を起こし続けてくださいます。

エゼ34:11-22 『まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。…わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。…しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。』

神様が「自分の羊」を探し出し、彼らの世話をするというのは、失われた子供たちを御自ら探しに来られるという意味ではありませんか?雲と密雲の日は終わりの時代を意味するので(ゼファ1:14-15)、エゼキエル書34章は、神様が終わりの時代にこの地に来られて子供たちを捜される姿を見せてくださっています。「わたしは彼らを連れ出す」と言われたので、この世に閉じ込められているシオンの子供たちを、諸国の民の中から導き出され、諸国から集められる方は、やはり神様でいらっしゃいます。

神様が成し遂げていかれる奇跡の御業を聖書を通して全て見ていながらも、「この民はいつまでわたしを信じないのか」という御言葉が、私たちに当てはまらないようにするべきです。全ての福音の御業は神様が起こされる奇跡です。

もちろん福音がうまくいく地域には、家族たちの素晴らしい努力も存在します。言葉も通じない所に行って、多くの実を結び教会を成長させるのを見ると、神様を感動させるだけの努力と真心があったからこそ、神様が恵み深い結果をくださったのだと信じます。神様を悟り、いつも天の父と天の母の手を握って、福音に臨めば、神様が起こされる福音の奇跡を体験し続けることができます。

「必ずこうなる」と言われた御言葉は全て実現する

誰が福音の奇跡を起こすのか、誰が福音の奇跡を起こすことができるのか、この二つの質問に対する答えは神様です。エロヒム神様が共にいらっしゃるこの福音は必ず完成する、ということを信じて疑わないように願います。私たちがこの御業に参加しさえすれば、神様は祝福と賞を授けてくださいます。

マコ13:10 『しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。』

マコ16:15-16 『それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』

イエス様が終わりの日の徴を弟子たちに説明される時、地震や様々な困難な状況が発生すると同時に、何より福音が世界のあらゆる民に全て宣べ伝えられねばならない、と言われました。神様が全ての福音の奇跡を起こされるので、私たちには「恐れずに全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われました。こんな預言が記録されているなら、その御言葉を私たちは信じなければなりません。

マタ26:52-54 『そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」』

「必ずこうなる」と聖書に記録された御言葉は必ず実現します。イエス様が捕らえられたのも能力がなかったからではなく、「キリストが私たちの罪のために犠牲になられ死者の中から三日目によみがえられる」という預言があったため、その預言を実現なさったのでした。

福音が全世界に全て宣べ伝えられると言われたら、必ず実現しますか、しませんか?また、神様が御自ら羊の牧者になられ彼らを探される、と言われたら探されるでしょうか、探されないでしょうか?神様は昔から御自分の民を探す御業を進めて来られました。父が失われた子供たちを捜しに来られ、ダビデの預言に従って37年の福音の御業を成就なさり、また母は今この時まで、私たちに信仰の力と勇気をくださり、救いの御業を導いていらっしゃいます。私たちのシオンが今日に至るまでの過程がそうであったし、福音が全世界の万民に宣べ伝えられるまで、これからの過程もやはり同じであることでしょう。

神様と共にいる者、奇跡の中心に立つだろう

神様が起こされる福音の奇跡が増えるほど、バビロンでは非常に驚いて肝をつぶしているようです。イスラエルの民たちがエリコ城の近くに行っただけでも、エリコの住民たちは肝を冷やし、心が蝋のように溶けてしまいました。神様が最前線で指揮をとり統率されるのに、誰が立ち向かえるでしょうか?

今、全世界のあちこちから、恵み深いシオンの香りが伝えられています。エルサレムに届いた手紙を読んでみると、皆同じように「最近起こった福音の御業は本当に神様が成された奇跡だと感じた」というものばかりです。人間の立場では、想像もできずだめだろうとあきらめていたことでも、考えもしなかった経路で事を進めることができるように、神様が助けてくださり成功できるようにしてくださったという内容を多く伝えています。自らの力でしてみようとする時は、人々が相手にしてくれなかったのに、エロヒム神様に頼り神様の犠牲を再び考えて出て行ってみると、昨日までは迫害に遭っていた町で、今日は皆真理を受け入れる状況に180度変貌したと言います。

福音を伝えに行くときは、天の父と天の母と共に行ってください。神様と共に行かないで自分の知識と能力で伝えようとする人は、一人の魂にも出会えずに、聞く人々みんなの心の門をすべて閉ざしてしまいます。私たちの力だけで対抗すればサタンに勝つことはできません。私たちの口から、いくら激しくて鋭い剣が出るとしても、それではサタンの盾を破ることはできません。先頭で戦うヨシュアがいくら勇猛だとしても、戦争の勝利は後ろにいるモーセの腕にかかっていたように、私たちの勝利は神様にかかっています。

誰がこの時代、福音の奇跡を起こすことができるか、また奇跡の御業を引き起こすのかを、必ず考えてみてください。その主体は私たちではありません。ヨシュアやモーセ、使徒パウロやペトロ、その誰でもありません。唯一神様だけであって、神様が共におられる人が奇跡の中心に立つことができます。
全世界で救いの御業を成して行かれる神様が、私たちと共におられます。福音の奇跡は、神様から出て来るということを忘れないで「私はあなたと共にいる」、「恐れずに驚いてはいけない」、「私はあなたを助ける」と言われた御言葉を考えながら、天の父と天の母の内で聖霊の実を豊かに結ぶシオンの家族たちになってください。