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テキスト説教は、印刷及び配布を禁じています。受けた恵みは、心に刻んでシオンの香りを放ってください。

「懐かしい故郷、天国」と 待つこと

一日、一日が過ぎ、一年また一年と時を過ごしながら、天国を懐かしみ天の父を恋しく思う心もますます大きくなるようです。

過去、失ってしまった永遠の天国への懐かしさと、天の父がこの地に早く来られることを渇望し待つ気持ちが、シオンの家族たちの心の中で一つになる時間が、今この時ではないかと思います。望みが叶うことを忍耐し待ちながら、聖なる信心深い生活を送り、永遠の故郷である天国を切に待ち望み、日々生きがいを感じ価値ある人生を送られるよう願います(ロマ8:15、二ペト3:11-13)。

懐かしい故郷、天国

人々は、誰でも自分が生まれ育った故郷に対して本能的な懐かしさを感じるものです。聖書は、私たちが天使の世界で罪を犯してこの地に生きる霊魂たちであって、その魂の故郷は天にあると教えています。それゆえに、人には霊的にも永遠の世界を懐かしむ本性があります(コヘ3:11)。

古今東西の詩人たちも異郷暮らしの寂しさと苦しさの心情を吐露したり、故郷の懐かしさを訴える内容を盛り込んだ多くの詩を残しました。その中で、韓国社会で広く愛されている詩、李殷相氏が書いた「カゴパ(行きたい)」という作品があります。故郷を懐かしむ切ない気持ちがよく表現されたこの詩を一度味わってみましょう。

わが故郷、南の海、あの青い水、目に浮かぶ。
夢にも忘れようか、あの穏やかな故郷の海。
今もあの水鳥が飛ぶだろう、行きたいな、行きたい。

幼い頃、共に遊んだあの友だち、懐かしい。
どこに行っても忘れようか、あのはしゃぎ回った故郷の友。
今日は皆何をしているか、会いたいな、会いたい。

あの水鳥、あの友だちも故郷に皆いるのに、
我は、何ゆえに離れて生きるようになったのか。
あらゆることすべて振り切り、帰ろうか、帰ろう。

行って、一緒に交わり昔のように生きたい。
わが心、色縞の服を着せて、笑って笑って過ごし、
あの日、あの涙のなかった時を、訪ねよう、訪ねよう。
(イ・ウンサン/「カゴパ(行きたい)」から)

この詩は、故郷に帰りたい詩人の心だけでなく、永遠の故郷である天国に行きたい私たちの心を代弁しているようです。詩人は、故郷の水鳥たちと友だちは皆故郷にいるのに、自分は何ゆえに、故郷を離れて生きるようになったのか考えています。

故郷の天国には友だち、兄弟たちも皆いるのに、私たちは何ゆえに、この逃れの町 地球まで来て、離れて生きるようになったのか、私たち自身についてもう一度振り返ってみましょう。失われた故郷、天国を慕いながら、その栄光に満ちた場所で天の父と天の母、天にいる美しい天使たちと喜びを享受した頃に帰らなければなりません。

故郷を懐かしみ、古都回復を待ったイスラエルの民

イスラエルの民が、時には国を失い異国で生きていく時も、常に心の中に失わず抱いていたのが故郷を慕う気持ちでした。バビロンに捕えられて行った時も、彼らは故郷エルサレムを忘れませんでした。

詩137:1-9 『…バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が/「歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか/主のための歌を、異郷の地で。エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。…娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。』

詩編137編には、失われたシオンの回復を願いながら、バビロンの川沿いで故郷を思い出し泣いたイスラエルの民の気持ちが綴られています。また、ダニエルは、日々自分の部屋からエルサレムに向かって窓を開けて一日三回祈りをささげました。これもまた故郷を懐かしむ気持ちを伺い知ることができる聖書的な内容だと言えます(ダニ6:10)。

過去の歴史は私たちにとっては鏡です。今は永遠の故郷である天国を考える時です。ダニエルのように、私たちも常に心が霊の故郷に向かっていなくてはなりません。永遠の故郷を思いながら「昔の涙がなかった時に帰ろう」という詩の内容のように、誰もが涙もなく、苦痛もなく、悲しみのない永遠の世界に帰れるよう願います。

故郷は絶対に忘れたりあきらめたりする所ではなく、最後には再び尋ね帰るべき所です。そこに私を待っている懐かしい両親と兄弟姉妹がいるからです。故郷に戻っても、父も母もいず、兄弟姉妹もいなかったら、何の意味があるでしょうか?

私たちが永遠の天国に帰る時には、そこに私たちを歓迎してくださる天の父、永遠に愛で抱いてくださる天の母が一緒におられます。また、天の幾千万の天使たちと共に、永遠に享受する祝福と喜楽が準備されています。このように、愛する人と一緒に永遠の喜びと幸せを享受する所が、私たちの故郷である天国です。

天の故郷を慕う心

この地は私たちが永遠に住む所ではなく、外国であり、ここで私たちは旅人の立場です。信仰の先祖もこの地に住みながら、自分たちがよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表しましたが、このように言う人たちは、自分が天の故郷を探し求めていることを明らかに表しています。

ヘブ11:13-16 『この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。…』

あの永遠の天国が私たちの故郷でした。天の故郷をいつも心の中心に置きましょう。故郷を思わない人は故郷に行くことができません。故郷に帰ることができる人は、常に故郷を慕って懐かしがる人です。

股のつがいが外れてもあきらめずに最後まで故郷に向かったヤコブの帰郷行路も、つまりは今日を生きる私たちのための記録だと言えます。(創31-32章参考)。ヤコブのように、股のつがいがはずれる痛みがあったとしても、決して故郷をあきらめてはいけません。昔、涙もなく、痛みもなく、悲しみもなかったあの頃に戻れるように、天の父と天の母がこの日まで私たちのために犠牲と苦労で故郷に帰る道を整えて置かれたので、一人も天国を失わずに皆が帰ることを願います。そして、まだバビロンの中でシオンを懐かしんでいる兄弟姉妹たちを早くそこから解放させ、彼らにもシオンに帰れる道、永遠なる天国の故郷に帰れる道を開いてくださるよう願います。

悔い改めて、故郷に帰ってくる天の子たち

この時間、天の故郷を慕う心と併せて、私たちが美しく栄華に満ちた天の故郷を離れることになった理由も考えてみましょう。そして、もう一度悔い改めて天の故郷に向かって進んで行くようにしなければなりません。イエス様が言われた譬えの中で、放蕩息子が故郷を思いながら後悔して、父のところに帰ってくる場面を見てみましょう。

ルカ15:11-24 『また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯ました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。』

故郷を思うようになって、放蕩息子には悔い改める気持ちが生まれ始めました。このように、私たちもこの地で時には悲しく、苦しく、寂しく、辛いことがあっても、ただその悲しみと苦しみ、寂しさと辛さだけに陥るのではなく、私たちの霊の故郷を考えてみる知恵をもつことが必要です。

過去に私はどうだったのか、その栄華に満ちた天の天使の世界で、全くこの世に存在もしない栄えある栄光と幸福、燦爛たる喜びが日々私と共にあったのに、私はどういう理由で故郷を離れ、今私はどんな位置にいるのかを振り返らなければなりません。私の天国の友人たち、幾千万の天使たちはすべて天国にいるのに、私はどうしてこの地まで来るようになったのかをもう一度考えながら、放蕩息子のように悔い改めの心を抱き、故郷に帰ることを考えるようにしましょう。

罪人一人が悔い改めて帰ってきた時に、天では悔い改める必要のない正しい人、九十九人の喜びよりもまさる喜びがあると言いました(ルカ15:1-7)。帰って来た放蕩息子のために父親が宴会を施したように、私たちの故郷である天国は常に私たちを喜んで迎える準備をしています。喜びと楽しさがあふれる天国を忘れずに、そこにおられる天の父、また私たちを天国に連れて行くため犠牲の道を歩まれ、苦難を受けられる天の母の全ての苦労を忘れず、永遠の天国に一人も欠けることなく帰られるよう願います。

聖なる行いと信心深い敬虔な姿で待ち望む天国

故郷に戻るには、故郷を懐かしむ心と共に、待つことが必要です。待つことに関連して「望夫石」という説話があります。新羅時代、朴提上という忠臣の妻が、夫を待って「望夫石」になったという伝説です。

訥祗王の兄弟である王子たちが、一人は高句麗の、一人は倭国の人質になりました。王が兄弟たちを偲んで心を痛めていると、臣下だった朴提上は高句麗に行って王子を救出してきて、再びすぐに倭国に行ってもう一人の王子を救出して戻らせますが、自分は捕まって殺されました。以来、彼の妻は日々丘に上がって夫が帰ってくるのを待ち続け、石になったという話です。

もし、朴提上の妻が夫を待っている間、心を尽くさず、自分が何をしてようと夫は帰ってくると思って、近所の婦人たちと一緒に遊びほうけて、行いも良くなかったなら、このような切ない伝説が後世に伝わることもなかったでしょう。

私たちが神様を待つ上でも「聖なる行いと信心深い敬虔な姿で神の日の来ることを待ち望みなさい」(二ペト3:11-13)と言われたように、そうして待つことが必要です。天の父と天の母が人類を救うために、肉の衣をまとって、この地に来られて、犠牲と苦難の十字架の荷を負われることも厭われなかったように、私たちも天の父と天の母が歩まれた道に従って失われた兄弟姉妹を探して、また真理の光でこの世を照らす役割を恵み深く行いながら、神様を待つ子供たちにならなければなりません。

季節が巡り年が変わるたびに、天国を懐かしむ時間、私たちの待つ時間もそれだけ短くなるのではないかと思います。さらに勇気を出して力を出して、天の父がこの地に来られるその瞬間まで、善い行いと、人類を救う意志を抱いて、神様を待ちながら、この地で共におられる天の母の犠牲と苦労に報いることができる天の子になりましょう。

私たちは、失った故郷の家に必ず帰らなければなりません。この世は束の間だけ過ごす仮の宿であり旅人の道なのだということを忘れずに、私たちが本当に心と思いを尽くすべき場所はどこなのかを考えて、天国を懐かしみ、天の父を切に待ちながら、一日一日敬虔に生きがいのある生活をすべきです。

天国の故郷に帰る日、再び涙のない時間の中へ私たち皆が帰るようになります。新しい天と新しい地、永遠の故郷である天国は、南の海があるこの地の故郷と比較することはできません。もちろん、肉の故郷も良い所ですが、霊の故郷である天国に比べると、全く取るに足りません。

涙のない永遠の故郷である天国を絶対に忘れずに、一人も天国に行く列から外れることなく、皆共に帰りましょう。誰もが神様の御言葉とその御心に恵み深く聞き従って、永遠の天国への懐かしさを抱いて、天国に向かって力強く駆けて行ってください。