わが家の主人は誰なのか
家は主人の品格や趣きをそのまま漂わせているものです。家庭を訪問すると、ある家は和気あいあいとした温もりが感じられ、ある家はがらんとして冷たい雰囲気が感じられます。少しの間その家にいても、家の主が怠惰な人なのか、働き者の人なのか、余裕のある人なのか、すべてのことに徹底的な人なのか、簡単に見抜くことができます。それほど家という場所は、主人の内的な要素がそのまま表出される空間です。
では、わが家の主人は誰なのかについて考えてみましょう。私たちは神様が住まわれる聖霊の神殿です(一コリ6:19)。私の魂の主人が神様であられるべきで、私たちの家庭の主人も、私たちの教会の主人も神様にならなければなりません。わが家の主人がどなたなのかを信仰の中で定立できなかった場合には、信仰生活において様々な試みを受けることになります。しかし、わが家の主人がどなたなのかを正しく悟るようになれば、神様がこの時までずっと私たちの手を握ってくださり、揺るぎない信仰の道に導いてくださったことが分かります。このことを考え、揺るぎない信仰で永遠の天国まで力強く前進していくシオンの家族の皆さんになって下さるように願います。
神様を心の中心におく信仰
神様は『あなたの父母を敬え』とおっしゃいました(出20:12)。私たちの肉体を生んでくださった父と母を敬うのはもちろんのこと、私たちの霊の父と母である神様にも孝行すべきことを悟らせてくださり、神様を畏れ敬う恵みに満ちた人生を送りなさいと、私たちに命じられました。
申4:9-10 『ただひらすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。…主はわたしに言われた。「民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼に聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。」』
神様は全宇宙の主であられ、主人であられます。また私たちにとっては父と母であられるので、神様を畏れ敬うことをほかの言葉で表現すると、霊的親孝行とも言えるでしょう。親孝行な子がいる家に行くと、親孝行の家風がその家庭から自然と感じられるように、神様を畏れ敬う雰囲気が私たちの教会や家庭、聖徒個人からも感じられなければなりません。
宇宙の中で地球は海辺にある砂粒一つに過ぎませんが、そんな所で生きていく人間たちに尊敬されたいと思われて、神様はこのようにおっしゃったのでしょうか。違います。神様の命令には、私たちをついには幸福にさせようと、つまり祝福を与えようとなさる深い御心があります。この点を理解して、一生を神様を畏れ敬いながら生きていく子供たちになられるようお願いいたします。
教会は、聖徒たちが一緒にひとつになって神様を畏れ敬うことを学ぶ道場です。教会の中では、いつも神様に仕え、畏れ敬い、神様の教えが生きて働かなければなりません。しかし、主人が変わってしまうと問題が生じます。私たちは神様の家を預かっている働き手であり、子供たちであり、神様から任せられた仕事をするのであって、この家の主人は神様であられます。神様の家は神様の方法で、神様が望まれ喜ばれる通りに運営されなければなりません。私たちはひたすら神様の御言葉を付け加えたり取り除いたりすることなく、昼夜黙想しながら反省して、実行しなければならないでしょう。
かつてイスラエルのヨセフは、ポティファルの家で働いていた時、主人が満足するように一所懸命働き、仕事をうまくこなしました。そのためその家の財産も増え、主人は家の事は全く心配せず、外の仕事に集中してもいいほど、ヨセフは諸々の事務を主人の望むとおりに処理しました。今日の私たちも神様の望まれるように働く子供にならなければなりません。主人であられる神様が何を喜ばれるかを知り、神様の御心に適うように、すべての御業を成して行きましょう。
神様の属性は愛
絵画が好きな人は、家に絵を飾るものです。書が好きな人は、自分の書いた作品や名筆家の作品をかけておいたりもします。音楽が好きな人は、家にピアノや楽器を置き、自動車好きの人は自動車業界に従事したり、自動車の模型を家に飾ったりもします。それでは神様の家は、何で満たされているべきでしょうか。
一ヨハ4:7-11 『愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。…愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。』
一コリ13:1-2 『たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。… 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。』
互いに愛し合うことは、私たちがして当然のことです。わが家の主人が愛であられる神様だからです。どんな人が私たちの家を訪れても、教会へ来ても、私個人に会ったとしても、いつも愛であられる神様を感じられるべきだと確信します。
神様はこの日まで、いつも愛で天国の家族を導いて来られ、愛を施してくださいました。過去、私たちは子供のように愛を受けるばかりでしたが、これからはお互いに愛し合うことのできる、神様の喜ばれる子供たちになるべきです。今や、私たちの霊的年齢は、一人前の大人の年齢に変わりました。私たちの考えも、大人の考えに、言葉と行動も、大人の言葉と行動に変わらなければなりません。愛されようとばかりした幼子の考えと言葉と行動をすべて捨てて、施して分け合う愛の役割を果たさなければなりません。
神様に学んだ子供たち
わが家の主人は神様であられ、神様の属性は愛です。私たちがもてなしを受け、高められることを望むより、もてなしてあげ高めてあげて、挨拶されるのを期待するよりも、先に挨拶し、自分から言葉をかけてあげて、先に寄り添って行く時、わが家の主人が神様であられることを、すべての人が確認できるようになるでしょう。
ヨハ13:34-35 『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。…互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」』
新しい掟は、言い換えれば新しい契約です。新しい契約の過越祭の真理の中には、「互いに愛し合いなさい」という愛の掟が込められています。ただ、パンとぶどう酒を食べて飲む儀式なのではなく、神様が命の糧である御自分の肉を裂いて子供たちに食べさせ、御自分の尊い血を飲ませてくださり、永遠の命を与えてくださった偉大なる愛が、その中に込められているのです。それで「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。
愛が主人であられる家に入ると、愛の香りが家の中に満ちているのではないでしょうか。わが家の主人の特性を理解すると、私たちがどのような姿に変わらなければならないのかが分かります。
マタ11:28-30 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」』
わが家の主人であられる神様の本性を正しく理解して学ばなければなりません。神様は柔和で謙遜な品性で、今まで私たちに接して来られました。「子供たちのために、私がこのように苦しみを味わわなければならない」とは言われず、黙々と私たちの罪を代わりに背負ってくださいました。
心が柔和で謙遜な方に、私たちは何を学ぶべきでしょうか?疲れた者、重荷を負う者が来て、すべての重い軛を下ろし、安らぎを得て休むことができる場所がまさにシオンです。中に入ると柔和が感じられ、謙遜が感じられ、愛が感じられる場所になるべきです。神様の家で、兄弟に冷たく接して、心を傷つけるなら、これは主人であられる神様が嫌がられることです。神様が主人であられるシオンは、いつも神様に似た柔和で謙遜な人々が集まった場所、この世で傷つき、さ迷っていた魂がすべての重荷を下ろし、安らぎを得る場所、喜びと楽しみ、感謝の歌声が絶えない場所にならなければなりません。そうなれば、私たちの兄弟姉妹がシオンに早く戻ってくることができます。
喜びと楽しみに満ちたシオン
私たちがキリストの心、つまり父の心と母の心を抱いて、福音に臨んだとき、本当に70億人宣教が完成するようになります(フィリ2:5)。私たちの内面からまず福音が完成して初めて、外的な福音が同時に完成します。神様の愛、柔和で謙遜であられる属性が、私たちの心に必ず備わっていなければならず、家庭にも、教会にもなければなりません。そのような父と母の心を抱いて、福音を伝えるならば、世界中に離散した天の家族たちが全員シオンに戻ってくることでしょう。
詩132:13-16 『主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。「これは永遠にわたしの憩いの地。ここに住むことをわたしは定める。シオンの食糧を豊かに祝福し/乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。祭司らには、救いを衣としてまとわせる。わたしの慈しみに生きる人は/喜びの叫びを高くあげるであろう。』
シオンは神様が御自分の憩いの地と定められた、神様の家です。シオンが、主人であられる神様が喜ばれる空間になるように、皆が努力しなければなりません。名称は神様の家だと言いながら、中に入ってみると、全く神様の香りがしない場合には、子供たちがみんな去って行きます。神様の家が神様の家らしく、キリストの香りでいっぱいになる時初めて、神様の子供たちが訪ねて来ることができます。
イザ51:3 『主はシオンを慰め/そのすべての廃虚を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。』
神様の家には喜びと楽しみと感謝の歌声がいつも溢れています。喜びと楽しみの声が絶えないのが、神様の家の雰囲気です。
イザ51:11 『主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る。』
シオンでは神様に救われた者が入ってきて、とこしえの喜びと楽しさを得ながら、嘆きと悲しみは消え去ります。家の雰囲気を見れば、主人がどんな方なのかすぐに察知することができます。強盗や悪者の家の中では、このように温かく愛があふれる雰囲気が、絶対に感じられません。まさにシオンは神様の家であるため、喜び、楽しむ声、感謝の歌声が絶えないのです。
神様が主人であられるシオンで、私たちは新しい契約の働き手の使命を任されました。もしや途中で、働く人たちが間違った行いをして、家庭の雰囲気を台無しにするようなことがあってはいけません。自分の好みに合わせて、自分の気分に合わせて雰囲気を作っていくのではなく、神様の雰囲気がシオンに漂っているようにすべきです。
神様の品性に新しく生まれ変わるとき完成する福音
世の中を生きていると、自分の考えと合わず、自分の作った枠組みに合わないことに出くわす時があるでしょう。その度に、激しい感情を表すのではなく、神様から授かった愛という大原則の下で、自分の性格を直してみましょう。わが家の主人が神様であられ、私の魂の主人が神様であられるなら、神様が愛する子どもたちにどう接してくださるのか考えてみましょう。
エフェ4:29-32 『悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。』
天の私たちの主人であられる神様は、子供たちに、いつも善良な言葉を語りなさいと言われました。無慈悲と憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てて、互いに親切にしなさいというのが、わたしたちの父と母の教えです。
神様の家では、天の父と母の教えが、実生活の中に溶け込んでいなければなりません。そのためには、私たちが柔和で謙遜で、愛があふれる姿に生まれ変わらなければなりません。私たちからも、家庭からも、教会からも神様の雰囲気が感じられる中で、天の父と母が施してくださった希望の下、喜びの歌声が絶えず流れていなければなりません。そして、いつも永遠の命の真理があふれる所になって、渇いた者たちが神様の命の水の御言葉を価なしに存分に受けることができなければなりません。このことを、天の父と母は一番望まれるのではないでしょうか。
私たちの家の主人は神様です。私たちの教会の主人は神様です。私の魂の主人は神様です。神様がわが家の主人だという信仰を持つようになる時、どのようなことが起きるのか見てみましょう。
ヨブ22:21-30 『神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。神が口ずから授ける教えを受け/その言葉を心に納めなさい。もし、全能者のもとに立ち帰り/あなたの天幕から不正を遠ざけるなら/あなたは元どおりにしていただける。黄金を塵の中に/オフィルの金を川床に置くがよい。全能者こそがあなたの黄金/あなたにとっての最高の銀となりあなたは全能者によって喜びを得/神に向かって顔を上げ/あなたが祈れば聞き入れられ/満願の献げ物をすることもできるだろう。あなたが決意することは成就し/步む道には光が輝くことだろう。… 』
私たちが自分の宝物(黄金)を持っている間は、神様の家としての様相を呈することができません。神様の家には、神様の気品が漂い、神様の特性が溶け込んでいるべきなのに、おかしな宝物でもって神様の家を飾ろうとするからです。
神様が主人になってこそ、私たちの顔が喜びで明るく輝くようになり、いつも私たちの魂が楽しい気持ちで充たされるようになります。神様をわが家の主人として、教会の主人として、私の魂の主人としてお迎えする時、福音の御業も必ず成就します。神様の家として、すべてのシオンの家族が完全な姿になるそのときが、永遠の天国が臨む瞬間だと信じています。福音がサマリアの全土と地の果てまで宣べ伝えられるその瞬間まで、ヨセフより堅実な新しい契約の働き手として神様に栄光を帰して、天国の故郷に帰った時、本当によくやったと誉めていただける天の家族の皆さんになられるように願います。