神様に出会う前と後
預言の御言葉そのままに、朝露のような青年たちが立ち上がって、神様に自らを献げながら歩んでいます。青年らしい覇気と熱い信仰で、多くの聖霊の実を結ばれることを願い、また婦人、壮年、学生、幼少年・老年に至るまで、神様の栄光を現しておられる聖徒の皆様にも、豊かな実の祝福を受けられますよう、願います。
神様に出会う前と後において、私たちには多くの変化がありました。神様に出会ってから、私たちの姿は神様に出会う前に比べてどのように変化し、私たちの生き方はどう変化したのか、聖書の御言葉を一緒に調べながら、振り返ってみましょう。
真のオリーブの木に接ぎ木された 野生のオリーブの枝
神様に出会う前、私たちは死に操られていた罪人でした。聖書は、神様に出会った後、神様だけがお持ちの「永遠の命」を持つ者として新たに生まれ変わった私たちの変化を「接ぎ木」に喩えています。
ロマ11:16-24 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。
植物学において「接ぎ木」とは、植物の組織の切断面を他の植物に接着させることを指す用語です。他の木に接ぎ木された枝は、元の形質を捨てて接木された木の形質をそのまま取り入れ、一つになっていきます。
聖書では、神様と私たちの関係を木と枝との関係に喩えながら、私たちが神様を離れては何もできない存在であることを強調しています(ヨハ15:1-5)。ローマ書の中で特に"接ぎ木"になぞらえて説明しているのは、私たちが罪人であった過去の本性を捨て、神様の似姿に変化しなければならないという事実を悟らせています。
韓国語では、似た品種でも良いものは「真の」という接頭語がつき、良くないものは野生という意味で「石の」という接頭語がつきます。 オリーブの木にも、良質のオリーブの木がある一方、野生のオリーブの木がありますが、野生のオリーブの枝である私たちが、真のオリーブの木であられる神様に接ぎ木されたのです。 私たちが元々持っていた本性では、永遠なる天国に入れる存在ではなかったため、神様に接ぎ木されて永遠の命を持つ者として新たに生まれかわったのです。
接ぎ木がうまくいった枝は、真のオリーブの木の性質をそのまま受け入れます。真のオリーブの木が持つ良い成分と栄養の供給を受けて、実の形も良くなり、害虫に打ち勝つ力もより強くなります。
この地のものへの関心が 天の希望へと変化
神様に出会う以前、私たちの人生は平凡かつ有限的な生に過ぎませんでした。生計のために働きながら何の望みもなく、食べることに汲々としているうちにだんだん老いていき、迫ってくる死を前にして、人生の虚しさを嘆きつつ、その生を終えることになっていたはずです。
しかし、神様に出会ってからの私たちは違います。神様に出会う以前は、世俗的なことに心が奪われていましたが、神様に出会ってからは何もかもが変わりました。私たちを呼ぶ呼び方からして、変わりましたね?以前は何の称号もなかった人が神様に出会ってから、新しい契約の働き手としての職分も得、キリスト人という称号も授かり、エロヒストという栄光なる称号も頂きました。神様は私たちのために、天にさらに大きな祝福を準備しておかれました。
黙2:25-29 ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、/わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、/土の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』
神様に出会う以前に持っていた私たちの夢が、この地で企業を一つ経営してみたり、小さなマイホームを持つ程度だとすれば、神様に出会った後には、そんな私たちには比べものにならないほどの大きな夢が生じました。 それは天国で、王の系統を持つ祭司長になってあらゆる国を治めることです。神様は大宇宙のすべてを眺めることができる広大な視野をお許し下さいました。
この地で志の高い人は、ある会社のCEOや、一国を治める大統領を夢見たりもします。しかし、一生をかけてあらゆる努力をした末にそのような地位に就いたとしても、そう長くは続かないばかりか、期待していた喜びや心地よさを楽しむこともできません。表向きには華やかに見えても、実際にはほとんどが痛みを伴うものです。
天国の権威はこの地の権威と質的に異なります。神様に出会った私たちが行く天国は、苦痛や痛み、悲しみがなく、日々新しい喜びが創造される永遠の世界です。神様は私たちにこれほど美しく永遠なる天国で、あらゆる国を治める権威を与えると約束して下さいました。私たちの神様は、絶対に嘘をつかれるようなお方ではありません。私たちが、この地では誰も分かってくれず取るに足らなそうに見える存在だったとしても、将来天国へ行けば、様々なことが変化を遂げるようになっています。
このような神様の国に入ることを望むならば、元々持っていた野生のオリーブの木の本性をすべて捨て去らなければなりません。罪人だった自分の本性を消し去ることを、聖書では「新たに生まれる」と表現しています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われたのは(ヨハ3:3)、野生のオリーブの木の本性を捨てて、神様の品性に新たに生まれ変わってこそ、天国に入れるという意味です。
エロヒム神様に出会った私たちは、野生のオリーブの木から真のオリーブの木に変化しています。神様が、神様の国で王の王、主の主であられるように、私たちにもあらゆる国を治める権威をお許し下さるという御言葉を心に深く刻み込み、この地への欲望を抱いて生きるスケールの小さな人間になるよりは、天の大きな希望を抱きつつ天に向かって力強く駆けて行かなければなりません。
神様に出会う以前のペトロと 出会った後のペトロ
ペトロも神様に出会う前は単に生活のために魚を獲る漁師に過ぎませんでした。他人に施すよりは、ただ自分自身のために日々働きながら、目標のない漠然とした人生を送っていましたが、キリストに出会ってからは、彼に多くの変化が起こりました。
マタ4:17-20 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
二ペト1:1-3 イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
イエス様に出会う前のペトロと、イエス様に出会ってからのペトロは、あらゆる面で変わりました。その呼称からして、「漁師」から「使徒」へと変わりました。神様に出会う前は「今日は魚がどれくらい捕れるだろうか」と心配していましたが、神様に出会ってからは「今日は何人の魂を救いに導びこうか」と考えました。神様の約束を胸に、そして天国に行けば「王の系統を持つ祭司長(一ペト2:9)になれるという希望を胸に、期待でいっぱいの日々を生きていました。肉体は、時には疲れてつらくても、彼には希望がありました。
ペトロだけでなく、使徒ヨハネ、使徒パウロも同様です。神様に出会ってから使徒たちがこのように変わったように、私たちも神様に出会う前と後ではこんなにも違います。以前、私たちは野生のオリーブの木でしたが、今では真のオリーブの木に接ぎ木され、真のオリーブの木の一部となりました。それならば、私たちの夢と未来も、真のオリーブの木と同様にならなければなりません。神様の願いが私たちの願いとなり、神様が願われることが私たちが願うことにならなければなりません。
利己的な性格だったのが人類の救いを願われる神様の品性に変化
真のオリーブの木であられる神様が、いつも心に抱き願って来られたのは、人類の救いです。人の子が来たのは、失われた者を探して救うため(ルカ19:10)、二度目にこの地に来られるのも救いのためだとおっしゃったので(へブ9:28)、全世界が救われるように最善を尽くすことが、まさに真のオリーブの木の本性をそのまま受け継いだ心構えであると言えます。
マコ1:35-38 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
キリストは、世界を救うことに希望と関心をお持ちでした。このことのために休むことなく早朝から祈りをささげ、宣教されたのです。世界を救うことを決意され肉体をまとって来られた神様の情熱が、私たちにそのまま移植されたので、私たちもそれぞれの福音の分野で最善の努力を傾けているのではありませんか?
神様に出会う以前、私たちの生きる目的がこの世に向かっていたのなら、神様に出会った後は永遠なる天国に向かって進んでいかなければなりません。毎日御言葉を調べ、神様と同化できない部分を取り除き、神様が喜ばれる方向に自分を変化させていかなければなりません。私たちの元々持っていた本性を一つずつ消していき、神様の品性を受け継ぎながら神様の思いが私たちの思いになり、神様の喜びが私たちの喜びになり、神様の願いが私たちの願いとなって、神様が私たちの中に、私たちが神様の中にいる関係にならなければなりません。
過去の、神様に出会う以前の状態に戻ってしまってはなりません。私たちはひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者たちですから、神様に出会った後の状態に新たに生まれ変わる者なのです(へブ10:38-39参照)。
神様が私たちに新しい契約という法を下さって、昔はそのように生きることのできなかった私たちを、神様の中に導いて下さり神様の安息日、神様の過越祭、神様の掟、神様の約束…これらを守りなさいと言われ、神様のものをすべて要請されました。それは、私たちを抑圧して拘束しようというのではなく、接ぎ木された野生のオリーブの枝が真のオリーブの木の性質を、そっくりそのまま受け入れなければ腐って、結局は死んでしまうからです。接ぎ木されたのなら、真のオリーブの根から供給されるエキスを枝の先端まで浸透させ、真のオリーブの木の性質そのものを所有しなければなりません。
イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もできない(ヨハ15:5)」と言われました。神様の教えから離れ去ってしまえば、それは魚が水の中から飛び出すのと同じ行為で、接ぎ木された野生のオリーブの枝が、真のオリーブの木から折り取られてしまうのと何ら違いはありません。
古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なさい
ローマの信徒への手紙11章では、神様の中に存在するようになった私たちを、真のオリーブの木に接ぎ木された野生のオリーブの枝になぞらえて説明していますが、これを他の聖句では、古い人を脱ぎ捨てて新しい人に生まれ変わる、私たちの過程であると教えています。
エフェ4:17-24 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
異邦人と同じように歩むな、と言いました。異邦人の生き方と私たちの生き方は異なります。サタンは異邦人が望み願うことを私たちの心に移植させようと、あらゆる手段を用いながらとんでもない悪巧みをでっち上げます。しかし、私たちがサタンの誘惑に負けてこの世と同化してしまえば、神様の御心に逆らってしまい、真のオリーブの木から外れ落ちてしまいます。
私たちの本性も考えも、生活もみな変化し、変わらなければなりません。エフェソの信徒への手紙にある「古い人」とは、野生のオリーブの木の性質を持った私たちの本性です。これを無くすことで、真のオリーブの木と一つになることができ、一つの体としての役割を果たすことができるのです。
真のオリーブの木であられる神様が何を喜ばれるのかが、聖書に記されています。宣教に力を注ぐ人、神様の御心に従うことを楽しむ人、神様の掟を慕う人、神様のものならすべて尊重して愛するこのような姿に、私たち皆が変化していかなければなりません。
両親は、自分に似た子供を格別に可愛がると言います。私たちも神様の中で神様に似た姿に変化しなければなりません。神様が人類の救いを喜んでおられるので私たちもやはり救いを喜び、熱心に福音を伝えて全人類を天国に導く信仰の精神で、神様の思いと一致していかなければなりません。
猛暑にもめげず、国内では国内で、海外では海外で毎日、神様の福音を伝えるたくさんのシオンの家族がいます。全員が神様に似ていきつつある、美しい姿です。天の父と母の栄光が地の果てまで、天地を超え宇宙にまで揺れ響くその日まで、野生のオリーブの木から真のオリーブの木の成分へと完全に変わり、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けて下さい。そうなって初めて、生まれ変わった、あるいは変化を遂げた、そのように言えることでしょう。たくさんの良い実を結んで、豊かな聖霊の祝福を受け、神様の国であらゆる国を治める権威を享受される、天の王の系統を持つ祭司長に、必ずなられることを願います。