한국어 English 中文简体 Deutsch Español हिन्दी Tiếng Việt Português Русский ログイン加入

ログイン

ようこそ

神様の教会世界福音宣教協会ウェブサイトをご訪問くださり、ありがとうございます。 このウェブサイトは、聖徒だけが接続できます。
ログイン
WATV ID
パスワード

パスワードを忘れましたか? / 加入

テキスト説教は、印刷及び配布を禁じています。受けた恵みは、心に刻んでシオンの香りを放ってください。

神様の証人になろう

神様は各時代ごとに、聖父、聖子、聖霊として救いの御業を繰り広げられる御自身の聖なる呼称を証しする証人として、御自分の民を召されました。聖父時代、神様は、民をエホバ神様の証人としてお選びになり、聖子時代にはイエス・キリストの証人として、今日聖霊時代には、現代を生きる人類に命の水をお許しになられる、霊と花嫁の証人とされました(イザ43:10、使1:8、黙22:17比較)。

神様が私たちを証人として選ばれた理由は、私たちが見て聞いた聖書の教えをもとに、正しい神様を証しし、世界中の国々に神様の栄光を現し、万民が神様を悟って信じ、神様が私たちの救い主であられることを悟らせるためです。(イザ43:8-12参照)。

法廷において証人の証言は、裁判の結果を左右するほど重要なものです。証人の一言により、真実が歪められることもあれば、真実が明らかになることもあります。人が罪人になることもあれば、無罪で釈放されることもあるのです。このように重要な役割を持つ人が、証人です。私たちを証人として召された神様の御心を悟って、神様の証人として使命を全うする、シオンのすべての聖徒たちになって下さるよう願います。

両親の無実を証明した息子の証言

ある夜、路上で数人の強盗が通行人に切りかかり、命まで奪うというおぞましい事件が発生しました。一味は殺した被害者をその場に残したまま逃げてしまいましたが、ちょうどその時、ある家族がそこを通り過ぎ、その場面を目撃しました。お父さんは、倒れている人を助けようと、真っ先に現場に駆け寄りました。横にはお母さんもいて、子供たちもその光景を全て目にしました。

その時、近くを通りかかったパトカーが、人が一人倒れていて、横で誰かがその人を抱えている姿を発見し、そばに停車しました。夜だったのと、はじめ遠くから見たために、この一家が犯行に加担したと誤って認識した警察は、とりあえず父と母を警察に連行し、子供たちは家に帰しました。

警察署で、父と母は「自分たちは犯人ではありません」といくら言っても、警察側は信じようとせず、証拠を出すよう要求しました。「あなたたちの無罪を証明できる証人がいますか?」という問いに、二人は「子どもたちも横で一緒にすべての状況を見ていたので、私たちの証人になれるはずです」と言って子どもたちを呼びました。しかし子供たちは、本当のことを言えば強盗たちに後で仕返しされるのではないかという恐怖と、自分がもしうまく話せなかったら、両親がさらに重い罪を被ることになるかもしれないと心配して、証言するのをためらうばかりで、まともに話すことができませんでした。

そのうち、とうとうこの事件に関する裁判が開かれました。法廷で親は、怖がって何も言えない幼い弟や妹よりも、度胸があって頼りになりそうな長男を最後の証人にしました。いよいよ長男が、証言台に立ちました。この息子が真実を語らなかったら、両親は殺人罪の濡れ衣を着せられ、刑務所へ行くしかない状況でした。

自分の一言で、両親が釈放される可能性もあれば、殺人犯という汚名を着せられる可能性もあり得る状況でしたが、長男は強盗が人を殺害する光景を目撃したため、自分もそのような目に遭うのではないかと思い、その瞬間までもびくびく震えてばかりいました。恐怖心から真実を語ることができないでいる息子を見つめる両親も、やりきれない思いでした。

しかし、このままでは両親が重罪人扱いされると思い直し、息子は決心を固め、勇気を出しました。 息子はその日見たすべての内容を、一つ一つ語り始めました。 犯人たちが通りすがりの通行人をどうやって殺害したのか、その光景についても詳しく陳述し、犯人の人相と服装まで説明しました。息子の証言は法廷で採択され、陳述内容にもとづき、似通った容姿と体格を持った前科者たちを調べた結果、とうとう真犯人が明らかになりました。決定的な証言により犯人は逮捕され、すべての問題は解決し、もう少しで罪人の汚名を着せられるところだった両親は、無罪で釈放されることができました。

神様の証人として選ばれた聖徒たち

さきほどの話で証人の役割をした息子のように、私たちは神様の証人として召された人々です。イエス様はオリーブ山で昇天されながら「サマリアと地の果てまで私を証しする証人になってほしい」と、弟子たちに願われました。

使1:6-8 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

証人とは、自分が見聞きしたことを正しく陳述して、真実を明らかにする人です。
神様の証人として口を開き、私たちの天の父と母は真なる神様であられることを、力強く証言しなければなりません。

この地球にいる70億という人口の中でも、私たちを最も信頼して下さったからこそ、証人にして下さったのではないでしょうか? どんな人も自分にとって不利な証言をする人間を証人に立てたりはしません。 このように重要な立場に私たちを呼んで立たせて下さったということは、神様がそれだけ私たちを信頼されているのだということが分かります。

一テサ2:3-4 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。

神様が私たちを認めて下さったがゆえ、福音を伝えることをゆだねられたのです。この息子娘たちを証人として立てれば、サマリアと地の果てまで行ってでも、間違いなく御自分を確実に証ししてくれるはずだと、信じて下さったのです。そして、私たちを証人として選ばれ、証言台に立たせて下さいました。「この方は、この地に来られた私たちの母なる神様です」「この方は、この地に来られた私たちの父なる神様です」と、私たちがエロヒム神様について、万民を前にハッキリと証しする時、私たちを証人にしてくださった神様を、本当に喜ばせて差し上げることができるでしょう。

ゆるぎない堂々たる証人の証し

証人でない人々は、正しい証言を聞くまで真と偽りを区別することができません。真実を目撃し、証人として召された私たちが、神様が肉体をまとってこの地に来られ、父なる神様も存在し、母なる神様も存在するという事実を、聖書を通して正しく証言できなければなりません。

神様は、私たちを信頼されて証人台に立たせられたので、父なる神様を証しし、母なる神様を証しする証人として、ためらったり躊躇するようなことがあってはなりません。恐れたり躊躇するような人間は、証人としての資格はありません。

前述の話では、もし息子が最後まで口をつぐんで黙っていたら、結果はどうなっていたでしょうか?天の父と母の御心に従って証人として召されたのに、当の息子は怖くて、または内向的な性格のためにためらって黙っていたなら、判事や検事をはじめ、法廷に集まった多くの人々は、その親を犯人だと誤解し、後ろ指を差すのではないでしょうか?同様に私たちが証言をせずに黙っていれば、私たちの父と母は、世間から嘲弄と蔑視を受けてしまわれます。証人として召された私たちが、証言をせずに黙っている間じゅう、父と母は大きな誤解を受けておられるのです。

たとえ話に出てくる息子のように堂々と、父と母の無実の濡れ衣を晴らして差し上げなければなりません。明確で確実な神様の福音を証しするにあたり、真実なのに偽りであるかのように自信なさそうに伝えてはいけません。証人が、法廷で検事や弁護士の質問に対してどもったり、理路整然とした証言ができなければ、真実を語っているにもかかわらず「相手のために虚偽の証言をしているのでは」と、裁判官が勘違いする場合もあります。

大胆さというのは、確信から出て来ます。 確実な証人の証言には、力があります(箴21:28)。神様を困らせる証人ではなく、皆が確実な証人になってサマリアと地の果てまで行って神様を証しして、福音をハッキリと証しできるようになりましょう。 神様は、私たちが神様から見聞きして学んだことをためらわず、ありのままに大胆に証言することを願われています。 私たちが正しく証しした時、世は神様について正しく知ることができるようになるのです。

天の父と母についてまともに証しもできず、父と母が私たちを救おうと伝えて下さった真理さえもまともに伝えることができなければ、神様の証人として、子供だと言うには恥ずかしいはずです。人が伝える内容をただ聞くだけでなく、これからは神様の真実の証人として、父なる神様、母なる神様を誰にでも、自信を持って証ししてみましょう。

証言しなければ不幸である

天の父と母は、真なる神様です。それなのにこの事実を知っている私たちがそれを証さないなら、まるで真実を明らかにすべき証人が証言台に立ちつつも沈黙しているのと、何ら変わらないでしょう。神様はそのような人々を咎められました。

イザ56:9-12 野のすべての獣よ、森のすべての獣よ/食べに来るがよい。見張りはだれも、見る力がなく、何も知らない。口を閉ざされた犬で、ほえることができない。伏してうたたねし、眠ることを愛する。この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず/それぞれ自分の好む道に向かい/自分の利益を追い求める者ばかりだ。「さあ、酒を手に入れよう。強い酒を浴びるように飲もう。明日も今日と同じこと。いや、もっとすばらしいにちがいない。」

番犬が吠えれば、家の外に怪しい人間が来たとすぐにわかりますが、泥棒が来ても吠えない犬なら、飼い主にとっては何の役にも立ちません。それでイザヤ書では、神様の御言葉を正しく証しできない預言者たちを、口を閉ざされた犬にたとえています。

見張り番の使命は、叫ぶことです。証人は、知らせるのが使命です。それでも神様の御心を叫ぶことができず、知らせることができずにのんびりと生きていくならば、神様は決してそのような者を喜ばれません。聖書はこのような人々は不幸だと教えています。

一コリ9:16-17 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。

私たちがゆだねられた務めは、神様を証しする証人という職分です。福音を伝えるのが「そうせずにはいられない」理由も、私たちが証人だからです。

証人が証言台に立つのは真実を語るためです。証言台に立ちながらも証人が口を閉ざし、ただ眠ることを愛し、深酒に酔い、自分の利益だけを追い求める生活をしていたら、彼を信じて証人に立たせた神様は、とても残念に思われることでしょう。なのでパウロは福音を伝えることは、そうせずにはいられないことであり、もし福音を伝えなかったら自分は不幸だと言ったのです。

エロヒム神様を証する証人たち

エロヒム神様であられる父と母を、世の人々はまだ正しく知りません。私たちが証言しなければ、彼らは聖書も、神様の能力も知らぬまま、ずっと誤解と不信に包まれているしかないのです(マタ22:29参照)。

神様は父なる神様だけ存在するのではなく、母なる神様もおられます(マタ6:9、ガラ4:26)。 私たちの魂の命を授けられた父なる神様と母なる神様を信じてこそ、救われることができます(創1:26-27、黙22:17)。 エロヒム神様に関する記録は、新約聖書はもちろん、旧約聖書だけで2500回以上目にすることができます。一箇所や二箇所ではなく、約2500回にもわたり聖書に証しされているのに、それが無理な解釈だと言えるでしょうか?

このすべての事実をよく知っている私たちが、はっきりと、大胆に証言しなければなりません。私たちが持っているのは、確かな真理です。伝えさえすれば、人々はすべて聞くようになっています。天国が近づき、神様の御言葉を伝えれば、たくさんの人々が心を開いて悔い改める時代が到来しました。聖書が私たちの証言をすべて裏付けていますし、神様も私たちに聖霊によって、常に新しい力を与えて下さっています。

二テモ4:1-5 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。

私たちにゆだねられた宣教人という仕事は、神様を証しする証人としての責務です。この重大な責務を私たちにゆだねられ、 折が良くても悪くても、常にこの仕事に励むようにと言われました。父なる神様も証しし母なる神様も証しして、父なる神様と母なる神様が全人類を救うためにお許しになった掟についても伝えることのできる真なる証人とならなければなりません。それでこそ神様があふれる祝福を授けられ、毎日のように御恵みを施して下さることでしょう。

神様の証人になった使命を、韓国内でだけ果たそうというのではなく、アジア、アフリカ、オセアニア、南米、北米、ヨーロッパを問わず、全世界すべての国でエロヒム神様を証ししなければなりません。神様の証人として使命を果たしていく中で、皆が10タラントンの実を結び、それよりもっと願う方々は、父と母にさらに多くの祝福を請い願い、百タラントン、千タラントンもぜひ実現してください。「サマリアと地の果てまで行って私の証人になりなさい」とおっしゃったので、父なる神様と母なる神様を、世界中に休むことなく証しして、証人としての使命を立派に果たして下さいますよう、重ねてお願いいたします。