한국어 English 中文简体 Deutsch Español हिन्दी Tiếng Việt Português Русский ログイン加入

ログイン

ようこそ

神様の教会世界福音宣教協会ウェブサイトをご訪問くださり、ありがとうございます。 このウェブサイトは、聖徒だけが接続できます。
ログイン
WATV ID
パスワード

パスワードを忘れましたか? / 加入

テキスト説教は、印刷及び配布を禁じています。受けた恵みは、心に刻んでシオンの香りを放ってください。

王になろうとする者、 王冠の重みに耐えよ

神様が子供たちのために準備された天国は、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったところです。しかし、天国への道は平坦な道ばかりではありません。何の問題もなく楽に天国に行ければいいのですが、この道には、私たちの前に立ちはだかる険しい障壁もあれば、乗り越え難い障害物もあります。

キリストの命を受け、福音を宣べ伝えた初代教会の使徒たちと聖徒たちも、苦難と迫害の中で、平坦ではない信仰の道を歩みました。なぜ、神様は愛する子供たちに、簡単に行ける楽な道ではなく、険しい道を歩ませられたのでしょうか?その理由を一緒に考えてみながら、今日の私たちも、永遠なる天国で、永遠に享受する栄光を眺めながら、命の冠を固く守り、最後まで信仰の道を走り抜くシオンの聖徒たちになれるようにしましょう。

自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい

「王になろうとする者、王冠の重みに耐えなさい」という言葉があります。王になろうとする人なら、少なくとも王冠の重みくらいは耐えることができてこそ、王になる資格があるというものでしょう。そのように、永遠の天国に行こうとする人なら、十字架の重みに耐え抜くことができなければなりません。イエス様は誰でも御自分について来たいと思うなら、自分の十字架を背負って従いなさいと言われました。

ルカ9:23 『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』

私たちは永遠の天国を目指しながら、日々キリストの道に従っています。この信仰の道のりにおいて、自分の十字架がない人はいません。全世界にいるシオンの聖徒たちも、みな平安で幸せそうに見えますが、実はそれぞれの困難を微笑みで隠して、将来、行くことになる天国に対する希望で忍耐されていることと思います。肩を押さえつける重い十字架を下ろしてしまいたい時もあるでしょう。しかし、十字架のない道はキリストの道ではありません。

2千年前、神様がイエスという名でこの地に来られ、御自ら十字架の荷を背負われました。神様の全知全能なる能力を少しでもお見せになっていたならば、人間は皆驚いてキリストを信じ従ったはずです。しかし、イエス様は、私たちと同じ人間の姿で3年半のキリストとしての生涯の間、被造物たちに数々の嘲弄と妨害を受けられながら、苦労と苦難に耐えて福音を伝えられました。私たちの罪を贖われるためにむちに打たれ、十字架に釘づけにされ、槍でわき腹を刺されました。そのような犠牲の愛で人類の救いの門を大きく開かれ、天に昇られました。

私たちに先立って、模範を示してくださったイエス様は、私たちに「あなたがたはわたしについて来たいと思うなら、わたしが歩んだ十字架の道に従え」と言われました。その御言葉は、キリストの苦難に共にあずかる人だけが、キリストの道に正しく従っていけるという意味になります。

二テモ3:12 『キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。』

神様に結ばれて敬虔に信心深く生きようとする人々は、迫害を受けると言いました。この世のシステムは、信仰の道を歩む人々をただ放っておきはしません。だからこそ、私たちの信仰の生涯でも、十字架のような困難が私たちの行く手を阻むことが多いはずです。

その度に、自分に与えられた十字架の荷から目を背けようとせず、その中に込められた神様の御心を悟られるように願います。苦難の果てには天国があるということを忘れないでください。道を歩いていてトンネルに入ると、最初はとても暗く感じられますが、その先には明るい光があるように、この道の果てには輝きと栄華に満ちた天国が待っています。救われることを願う天の民であるならば、自分に与えられた十字架の重みに耐え、キリストの生涯に完全に従う中で、永遠の天国に辿り着かなければなりません。

十字架を負うようにされた理由

神様が創造されたすべてのものには理由があります。ある人は、天気がいつも晴れてくれたらいいのにと言います。しかし、実際に1年中晴れた日が続く砂漠を見てみると、草一本生えておらず荒涼としています。雨や雪が降らないため、水が不足し、水が不足しているため植物が育たず、植物を食べる動物も生存することが難しく、人も居住できない場所となっています。時々、雨や雪が降って風も吹いてこそ、植物がちゃんと生長できます。稲妻が走り、人に恐怖をもたらす雷も、植物にとっては窒素という重要な養分を得るために必要なものです。

その度に、自分に与えられた十字架の荷から目を背けようとせず、その中に込められた神様の御心を悟られるように願います。苦難の果てには天国があるということを忘れないでください。道を歩いていてトンネルに入ると、最初はとても暗く感じられますが、その先には明るい光があるように、この道の果てには輝きと栄華に満ちた天国が待っています。救われることを願う天の民であるならば、自分に与えられた十字架の重みに耐え、キリストの生涯に完全に従う中で、永遠の天国に辿り着かなければなりません。

人生も、生きていれば良い事ばかりあるのではありません。時には曇りの日も、風の日も、雷の日もあります。神様の創造の摂理を見てみると、真理の中でも私たちがそのような過程を経験してこそ、霊的な実として成長できます。

私たちは、自分が負っている十字架を大変で苦痛を伴う重荷だと思ったりもします。しかし、十字架はただ苦しい重荷であるだけでなく、私たちの救いのために必要不可欠な要素です。使徒パウロには、彼を苦しめる肉体のとげ、すなわち病気がありました。彼は、この病気が自分から離れることを何回も求めましたが、神様はそれもまた神様の恵みであることを教えてくださいました。

二コリ12:7-10 『また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』

パウロは、神様が自分を愛されて肉体の弱い部分も与えられたということを悟って、かえって大いに喜びました。その不自由で弱い部分が、彼を思い上がらせず、間違った道へ進まないように防ぐブレーキの役割をしてくれたのです。


キリストの道が十字架の道であったように、キリスト者の道も十字架の道です。イエス・キリストを真の神様と信じて従った初代教会の聖徒たちも、当時、イエス様を異端視し、迫害した宗教指導者たちから多くの迫害を受けました。使徒パウロは訴えられ、法廷で「ナザレ人の分派(異端)の首謀者」と非難されました。それでも、砕くほどに強い香りが立ち上る没
薬のように、福音は日に日に広まっていきました。多くの患難と迫害が初代教会の福音を妨害するように見えましたが、そうであればあるほど聖霊の力は強まり、サマリアと地の果てまで、アジアを越えヨーロッパ全域にまで御言葉が伝わるという驚くべき御業が起こりました。

これが十字架に込めておかれた神様の御心です。「十字架」というと、一見苦難だけを連想してしまいがちですが、その裏には勝利と栄光があり、救いがあります。

天の冠の重みに耐える「王の系統を引く祭司」

教会当時も、あえて偏見と迫害の中で福音を伝えさせられました。この時代も、救われる民に十字架を背負ってキリストに従わせられたのには、意味があります。聖徒たちは、天の「王の系統を引く祭司」(一ペト2:9)になる人たちだからです。

黙22:1-5 『天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。』

将来私たちは、宇宙の世界を治めておられる「王の王」である神様から天国を相続し、世々限りなく王として統治することになります。王となる人材には、それに見合った教育と経験が必要です。もし天国で誰かが命じるままに、あちこち付いて回る一般の民になる予定なら、今の試練と苦痛を経験する必要はないはずです。

天で世々限りなく王として統治すると言われたので、私たちにも頭にかぶるべき王冠があるのではないでしょうか。私たちには神様が備えられた義の栄冠、命の冠があります(二テモ4:8、ヤコ1:12)。王冠の重みに耐え抜く人が王になることができます。

ロマ8:16-17 『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』

相続人は跡継ぎという意味です。神様の跡継ぎたちが受け継ぐ王冠には重みがあります。初代教会から今日まで、福音の歴史を振り返ると、順調な道だけあったわけではありません。この時代にも天の父が数多くの困難の中で教会を導いてくださり、天の母も世界のあらゆる民に真理が伝えられるまで、苦労と犠牲を惜しまれずにいるからこそ、今日の私たちがいるのです。

キリストと共に歩む私たちも、天国の相続人としての栄光を受けるために、苦しみも共に受けなければなりません。時には苦痛も、悲しみも、苦難もあるでしょうが、神様はその中で喜びと望みも下さいます。私たちに永遠の天国があるという慰めも感じさせてくださいます。苦難に直面する度に、神様が私たちを大きな器になるように鍛錬していらっしゃることを信じて、福音の仕事にさらに力を注ぐ天の相続人になられるよう願います。聖書は新しい契約の真理の内にいる民を、永遠の天国で世々限りなく王として統治する相続人と認めてくださっています。

ヘブ9:15 『こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。』

ここで言う「キリスト」はイエス様を意味します。新しい契約の仲介者であるイエス様は、新しい契約を通じて永遠の財産、つまり永遠の天国を受け継ぐという約束にあずからせてくださると言われました。新しい契約の内にいなければ、誰であっても、神様が約束された天国を受け継ぐことはできません。

今日、新しい契約を守る私たちは、神様の相続人として神様が備えられた栄光にあずかるために、十字架の重みに耐え得る者にならなければなりません。この道は狹く細くて、見いだす者は少なく、誰でも行ける道ではありません(マタ7:13-14)。神様の御心に正しく聞き従うという信仰を持っている人だけが歩んでいける道です。このような新しい契約の真理の道を、天の父と母と共に最後まで歩まなければなりません。

王の系統を引く祭司としてすべき宣教

王なら偏狭な見方をしてはいけません。自分の周りにだけ目を向けるのではなく、王国全体に目を配り、心を配って、民衆が平穏に暮らすためにはどうすればいいのか悩まなければなりません。そのためには多くの経験が必要です。それで神様は私たちに宣教を命じられました。御自分の能力であっという間に世界福音を完成させることもおできになりますが、能力もなく知恵も足りない私たちに、とても大きな使命を任せてくださったのには、深い意味があります。

マタ28:18-20 『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(浸礼)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』

イエス様が命じられたことを教え、守らせることは、簡単なことではありません。しかし、その中に神様が備えられた祝福があります。

神様は私たちが永遠に王として統治する前に、たくさんの経験をすることを願われます。私たちは宣教を通じて、言語や風習、文化が違う人たちに会って理解できるようになっていきます。世の中には神様のお命じになったことを知らなくて行えない人もいれば、知っているくせにしない人もいます。性格が円満な人やきつい人がいて、自分とよく合う人とそうでない人がいます。しかし、神様はすべての民のもとに行って、御言葉を伝えなさいと言われました。

多様な性格を持った人に神様の御言葉を伝えてみると、多くのことを学ぶようになります。その中で共通することが一つあるとすれば、彼らがみんな悔い改め、救われるようにするためには、私たちが神様から与えられた愛を抱いていなければならないということです。自分の性格や自分の考えに合わせて行っていると、横道に反れることも発生しますが、キリストの愛で御言葉を伝えれば、全世界が和合でき、良い実を結ぶことができます。

今、全世界のシオンの家族たちが、神様の愛でお互いに譲歩し配慮しているので、175カ国のシオンが円満に一つになって、福音のために最善の努力を傾けることができています。各国から、多くの魂が神様の御もとに帰って来る知らせが、毎日のように聞こえてきます。魂が新しい命として生まれ変わり、天の人として生まれ変わるまでには、共にいる兄弟姉妹の多くの犠牲が必要となるでしょう。それで、使徒パウロは、一人の人を宣教することは、産みの苦しみのようだと言いました。

王冠のない王はいません。王になろうとする者は王冠の重みに、天国に行こうとする天の民は十字架の重みに耐え得る者にならなければなりません。私たちは世々限りなく王として統治する者たちです。互いの立場や環境をよく察して、誰に会ってもキリストの愛で和合しなければなりません。そんな所が天国ではないですか。宣教は、そのように変化するように経験を積む過程です。必ず経験すべき、天国に行くための過程であり、王冠の重みに耐える力を私たちに身につけさせられるためのものです。

神様は天に行く希望で十字架の重みに耐える子供たちに、朽ちることのない永遠の命の祝福と王冠をお許しくださいます。皆頑張って、天国の福音が完成するその日まで、さらに一生懸命宣教し、祈り、御言葉を調べ、天の父と母の御心に応える子どもたちに、ぜひなられることを願います。将来被ることになる王冠の重みに余裕をもって耐えられながら、天国に入り、エロヒム神様に永遠の栄光と賛美を帰されることを願います。