ペトロのように天国の鍵を授かるには、 いつの時代でも人の姿で来られる神様を悟り、受け入れなければならない。 最後のエバとして来られた、天の母を受け入れた者たちだけが永遠の命を得て、 サタン(陰府)のすべての力に対抗することができる。
すべての人は、終わりの日にシオンに登場される 母なる神様の真理を学べばこそ、生きる道を知ることができる。 イエス様が二千年前に救いの業を完成させず、 「終わりの日に復活させる」と言われたのは、 救いは終わりの日に登場される母なる神様によって完成するからである。
天国の市民権を得るには、名が小羊の命の書に記されなければならない。 エロヒム神様がおられるシオンで、バプテスマを通して新しい命を受ければこそ、小羊の命の書に名が記される。 命の書に名が記されなかった人々は、最終的に永遠の地獄の火の池に行くことになる。
信仰生活に絶対に必要なものとして、 何よりも優先させなければならないのが「悔い改め」である。 「悔い改め」とは、世に向かった罪の心を神様の恵みの世界に、 方向を変えて改心する宗教的行為をいう。 (預言者ヨナの悔い改め、帰ってきた放蕩息子のたとえ) 罪人であることを悟り、自分自身を低め、涙で祈った徴税人のように、 神様の前に心を尽くして自分の罪を告白したダビデのように、 天上と地上で犯したすべての罪を、心を尽くして告白するのが完全な悔い改め。
全き知恵は、神様の聖なる名を知って畏れることだ。 神様の名を知っている人だけが神様の民となる。 イエス様の新しい名が、最後の時代に救いを決定する最も重要な鍵となる。 私たちに「過越祭」で罪の赦しと永遠の命を賜るために 新しい名で来られた「安商洪様」を正しく畏れ敬い 天国に入城する神様の真の民に皆なろう。
全人類が救いを望んでも、人の戒めを守ったらカインの献げ物のようにむなしい敬拝になり、 神様の戒めを守る者にのみ救いの祝福が許される。 いちじくの木の預言にそって再び来られた再臨キリストが、 新しい契約で人類の罪をとりなして下さり天国に導いてくださる。
神様の御心を行い、過越祭で神様の刻印を押された天の民は、 どのような状況の中でも神様が守ってくださる。 (アメリカ オレゴン州「銃撃事件」で体験した過越祭の権能) 「主よ、主よ」と言いながら見かけだけ信者である人が、行くことができる天国ではない。 少しでも神様の御心を行う人が永遠の祝福を受け、神様の内に永遠にいることができる。
この地の肉的人生は、ほんのしばらくキャンプをする期間のようなものだ。 聖書は私たちに、人の肉体の中に魂が存在し、 その魂が永遠に住む家は天国にあるという事を悟らせてくれている。 この地で悔い改めの人生を生きたのか、 神様の教えに反する人生を生きたのかに従って、 天国に導く魂と地獄に送る魂を区分される。