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命の真理メディア説教 テキスト説教 真理の書 聖書に関する質疑応答
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旧年を送り新年を迎えながら、私たちに天国の希望をくださった神様にもう一度感謝をささげます。 将来行く所を知らない人々は、早く過ぎ行く年月を振り返りながら、惜しい気持ちと空しさの中で憂鬱になったりもします。しかし、新しい契約の内にいる聖徒たちには、永遠なる天国がより近づいているのですから、さらに神様に栄光を帰し感謝をささげ、神様の国に入る上で欠けた所のないように準備をするべきだろうと考えます。 将来行く天国に対して聖書を通して調べてみながら、喜んで天国を待ちつつ、この地で与えられた生活を、一日一日意味のある充実した日々として生きていくシオンの家族に皆さんなられるように願います。 時間を使いながら何を残すのか? 人がお金を使うと、それによって得るものがあるはずです。家を買ったり、欲しい食べ物や品物を得たりもします。それでは、神様が私たちにくださった人生という時間を使いながら、私たちは何を得ているのか考えてみる必要があります。 時間を何かに全て使っても得るものがなければ、そんな人生はソロモンが言ったとおり「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘ1:2)と言えます。お金を投資して得るものがある時、価値のある投資だと評価するように、私たちに与えられた時間の投資も同じです。過ぎた一年という時間を費やしたなら、それに応じた結果がなければなりません。その時間を通して天国で受ける多くの賞を貯め、永遠なものの...
過越祭の権能で罪悪の世から抜け出した私たちは、永遠なる天のカナンを目前に控えて、信仰の荒れ野の道を歩んでいます。将来永遠の喜びと栄光にあずかるまでは、その過程で暫くの困難や苦難があることでしょう(ロマ8:16-18)。イスラエルの民たちが、奴隷生活をしていたエジプトから抜け出して、約束の地カナンに至る過程の中で経験した40年の荒れ野の道にも、あらゆる悪条件と障害物があったように、私たちが歩んでいるこの道もいつも平坦なわけではありません。 目の前に広がった肉的な条件だけを見れば、どんなに考えても絶望的で解決策を探すことすら難しい時もあるでしょう。けれど、私たちと共に歩まれる神様を考えれば、あらゆる困難を克服し勝利することができます。道であり、真理であり、命である神様は、真理の都シオンで私たちといつも共にいらっしゃり、全ての答えをくださっています。 上を眺めよう ある人がガラスの箱の中に閉じ込められました。外は見えますが、前に行けば透明なガラスが自分の前にそそり立っていました。後ずさりしても同じで、左右も同じでした。四方がガラスでできた箱に閉じ込められたと感じた瞬間、この人は絶望に陥りました。どうすれば生きられるのか、どんなに悩んで思い巡らしても答えを見つけられませんでした。 落胆し絶望の日々を過ごしていたある日、彼はふと自分が死なずにもう何日もここで生きていることに気づきました。密閉されたガラスの箱に閉じ込められたなら...
シオンに住む神様の子供たちには、死も苦痛も悲しみもない永遠なる天国を受け継ぐことが約束されています。私たちは永遠に治め世々とこしえに続く天国をお許しくださった神様に感謝と栄光をささげ、神様が導かれる通りに従って行ける信仰を持たなければなりません。 知恵ある子供は両親の喜びだが、愚かな子供は両親の嘆きだという箴言の教訓があります(箴10:1)。どうしたら神様に喜びをささげることができ、どんな信仰の覚悟を持てば神様に栄光を帰す人生を生きられるかを考えながら、後悔が残らない恵み深い福音の生涯を生きていく賢明な天の子供たちになられることを願います。 地上から送られてくる資材で建てた天国の家 ある金持ちが信仰生活をして天国に着いたそうです。そこで彼は天国の鍵を持っているペトロに案内してもらうことになりました。金持ちは地上で生きていた時も豪華な家で生活した上に、さらに神様を信じて天国まで来たので、天国で自分が住む所は豪華絢爛な家になるだろうと考え、胸をドキドキさせながらペトロの後をついて行きました。かなり進むと、この地で一度も見たことのない金色に輝く超豪華なお屋敷がずらっと並ぶ住宅団地が現れました。 「あ、あの家の中の一つが、私の家なんだろう。」 金持ちは期待に胸を膨らませて、ペトロの後に付いて行きましたが、おかしなことにペトロはそっちに案内せず、そのピカピカ光る屋敷を通り過ぎていくのでした。もう少し行くと、それより少し物...
神様は私たちに祝福と永遠の命を賜り、天国を治めることができる権威まで約束してくださいました。私たちが天で犯した罪と咎をすべて赦してくださっただけでなく、罪人である私たちを天の「王である祭司」に変えて、永遠の命に至れるようにするまで、日々「いけにえを焼き尽くす祭壇」の小羊になられ、死の境界線を行き来することも厭われませんでした。 私たちはこのような神様の愛にどのようにして報いることができるでしょうか?ひたすら子供である私たちの救いのためだけに犠牲と献身を惜しまれず、私たちと共にいてくださる天の父と天の母に、果たして何を差し上げることができるでしょうか? 神様に祈りをささげる時、ただ何々をくださいと要求する祈りに先だって、神様のために何を差し上げるか、神様がこの地で繰り広げて行かれる救いの御業のために、私たちができることは何があるか、一度くらいは考えてみなければなりません。 母と卵 いつだったか「母と卵」というタイトルの文を読んだことがあります。そこは、父親が田舎の町で教鞭をとる教師の家庭でした。ある日、母親が家族に何か役に立つ仕事ができたらと思い、父親に相談したそうです。もちろん、三人の息子を育てて家長を助ける母親の家事も少なくはありませんでしたが、子供たちがみな学校に行って、夫も出勤した後、少しの間でもただ家にいるのが気楽でなかったようです。 父親は母親にそれほどまで何かしたかったら、鶏を育ててみてはどうかと提...
「悔い改めよ、天国は近づいた!」 約2千年前、イエス様がこの地に来られて30歳でバプテスマを受けられ、福音を伝え始められる時に叫ばれた第一声がまさにこの御言葉でした(マタ4:17)。イエス様の御言葉には、人類が悔い改める心で天国に行く準備をすることを願われる御心が込められています。神様の国が迫っている時に、すべての人々が悔い改める心で正しく生きていき、天国に到達することを望まれたので、悔い改めよという御言葉で宣教の門を開かれたのです。 昨年よりは今年、昨日よりは今日、永遠なる神様の国は私たちにどんどん迫っています。その近づいている天国を考えながら、私たちはどうすれば神様が望まれる真の悔い改めに到達できるのか、聖書の教えを調べてみましょう。 悔い改めない者に臨む滅亡 私たちが守る角笛祭、大贖罪日、仮庵祭の秋の祭りには悔い改めの意味が込められています。仮庵祭は宣教が中心ですが、真に神様が望まれる宣教をしようとするなら、悔い改めが土台になければなりません。悔い改めが基盤になっていない宣教は何の意味もありません。 預言的に見ると、私たちは仮庵祭時代を生きています。まずは自分自身の罪を正しく認め、その罪を心から深く悔い改める必要があります。このように悔い改めた心で、自分以外の魂たちも悔い改めさせることが、この時代を生きる私たちがなすべき悔い改め運動です。 詩7:11-13 『心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。正...
歴史を調べてみると、偉人の中で誰の助けも借りず独りで偉大な業績を残した人は誰もいないようです。聖書の歴史の中に登場する偉大な信仰の先祖たちも、誰かの助けなしに自分一人でその位置に立った人はいません。 助けとは、人から受ける助けもありますが、全宇宙の万物を創造され、時代と歴史を導いていかれる神様の助けが最も力強い助けです。人々の助けは失敗することもあるし、むしろ誤って失敗させる要因になることもありますが、神様の助けは、いつも私たちを永遠の救いと勝利の道に導いていきます。神様に助けてもらって行うことには、決して失敗がありません。 天が助けたら、人の力でどうすることもできない 昔、中国の漢という統一王朝が建てられた直後のことです。漢の高祖は、統一という大きな業を成し遂げ、世の中が太平になると、ある日、臣下の中でも有名な将軍であった韓信に尋ねました。 「公は私が何人くらいの兵士を率いることができると思うか?」 「10万人くらい率いることができると思います」 韓信の答えに皇帝は再び尋ねました。 「それでは、公はどれくらい率いることができると思うか?」 「わたくしは、多ければ多いほどいいと思います」 皇帝は韓信が皇帝である自分よりも自らをもっと優れていると考えているようで、しばらく不快な気持ちになりました。 「どうして私は10万人くらいしか率いることができないのに、公は多いほどよいと言うのか?...
信仰の究極的な目的は魂の救いを受けることにあります(一ペト1:9)。永遠に死ぬしかなかった天の罪人である私たちに、神様はこの地まで来られて救いの真理を施してくださいました。それゆえ、神様の御言葉に従順に従って救いを受ける人生を生きることが、私たちにとって最も大きな幸せであり、最も大きな所得だと言うことができます。 シオンの家族たちは正しい判断力を持ち、どんな困難があっても霊的損害だけは受けず、霊的祝福を全て受けられるよう願います。畑に隠された宝を得るためには、自分の全ての持ち物を売ってでもその畑を買うべきであるように、天国という宝を得るためなら、若さと努力、どんなものでも投資できなければなりません。損害なしに天国が得られるなら、もっと良いのですが、肉的利益と霊的利益のうち、どちらか一つを選ばなければならないなら、霊的なものは決して損害を受けないようにしましょう。近づいた天国を考えながら、皆が天国に帰れるよう切にお願いいたします。 肥えた獣の群れと引き換えに様を失ってしまったサウルの霊的損害 聖書の歴史を調べてみると、霊的損害を取るに足らないとみなし、肉的損害をより大きく見なして神様を遠ざけ、神様に対する信仰を捨ててしまった愚かな人々も大勢いました。どうすれば霊的損害を受け、どうすることが霊的祝福を積む方法なのか、聖書から知恵を得ることにしましょう。 サム上15:1-23 『サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わ...
多くの人々は、キリストを信じる前に、まず奇跡を見ようとします。もちろん、神様は全知全能な方なので、どのような奇跡でも行うことがお出来になります。 それでは、キリストが行われる奇跡とは何でしょうか?人々は、足の不自由な人が立ち上がって、盲人が目を開く程度の内容を指して奇跡と言います。しかし、神様はすでにもっと大きくて偉大なる奇跡を数知れず行われたので、その程度のことは奇跡の中でもとても微々たるものに過ぎません。 信仰の目で見れば、私たちは数々の奇跡を眺めることができます。その中でも、神様が行われた最も偉大なる奇跡は、罪によって死んだ私たちの魂を永遠の命の御言葉で復活させた新しい契約の奇跡です。 まず、イエス様の行跡を通して、果たしてどのような人が奇跡を体験できるのか調べて、神様の最大の奇跡を体験する私たちになりましょう。 奇跡を体験した人々の特徴 マタ9:1-8 『イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。・・・そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。』 マタ9:18-22 『…...